傷つきやすさ頑張れなさを考える(改稿 25.7.4.)

( 以前からずっと考え続けているが、いちど整理するために書いておく)

傷つきやすい・頑張れない人々に関しての考察

自身の体質的精神的な要因で通常の社会的な生活が困難な人々、について。
※以下は子供たちと親や教育者についての提言である。すでにハンデを背負って社会生活を送っている人々にはフォローやケアの方が必要なのは言うまでもない。

疑問点

「多様性の時代」「みんな一緒でバラバラがいい」「SDGs」「思いやりと気遣い」などと声高に言われている。差別をなくす、多様性を重んじる、それは正しいことに思えるし、今現在必要な姿勢だろう。しかし根本的な解決は、そこにはないのではないか。どれも臭い物に蓋をする、対処療法を全員に強いているだけのようにも思える。
弱い人々をいかに救うかは、もちろん大切なこと。もう一つ大事なことは、そういう人々を増やさないことだと思う。

人間の能力

人間は、初めは弱くだらしなく何もできない生き物だ。同時に、向上・成長する素地を備えている。問題は、その可能性を十分に生かし能力を育むことなしに、子どもたちを社会に送り出してきてしまったことではないか。
「その人らしさを大切に」という名目のもと、発揮可能な能力を萌芽の段階でつみとってしまっているのではないか。
心の傷を自分でいやす自己治癒力、傷ついても病まない、傷を俯瞰して対応する力、柔軟で粘り強い心。しかしこれは粗野で鈍感な人間に育てるということではない。他者に対して想像力があり、自分の至らないところに気づき、より良い方向を目指し工夫する力、それを育む教育が必要だろう。

社会

堂々としていながらも他者への敬いがあり、傷つけても傷つけられても「ごめんなさい気をつけます」「大丈夫です気にしないで」、そう素直に言い合える優しさ。自ら傷を癒せる柔軟さ・たくましさ、復活する力。それがあってこそ、バラバラな個々を認められる社会が成立可能になるのではないだろうか。
私たちは、神経質で異様に細かいルール社会に束縛されたいだろうか? ゆったりとおおらかで幅のある社会ならどうだろう。もし誰かに傷を負わせてしまったときには、しっかり内省する機会を与えられる、思いやる心を育てられる世界。ヒステリックに避けたり反撃するのではなくて、心に余裕を持って向き合える世界。

教育

私たちは生きるための強さを磨くことに関して、時代と環境に即した方法を十分に積み上げずに来てしまった。私も大人の世代としての責任を感じる。

情報の共有

当事者にはどんどん声をあげてほしい。単なる社会への不満ではなく「私はこういうハンデを負っているが、このような努力や、このような工夫をして乗り切ろうとしている」そのノウハウの方だ。こういうケースにはこういう心構えや手法で対応できている、そんな具体例や経験をどんどん発信してほしい。それを、小さな子供の親や教育現場に早く情報共有させたい。できれば事例集のように白書や書籍にまとめて、簡単にアクセスできるような集大成が欲しい。
その上で、それでもまだここが難しいという問題点を、今度は社会の方で真摯に検討し対応していけばいい。


ここまでの思考はまだ途中で、結論ではない。これから先もさまざまなことを見聞きし、さまざまな人々と共に考え続けていかなくてはならない、と思う。