傷つきやすさ頑張れなさを考える

( 以前からずっと考え続けているが、いちど整理するために書いておく)

傷つきやすい・頑張れない人々に関しての考察

何某かの手帳を持つほどではないけれど、自身の体質的精神的な要因で通常の社会的な生活が困難な人々、について。

「多様性の時代」「みんな一緒でバラバラがいい」「SDGs」「思いやりと気遣い」などと声高に言われている。差別をなくす、多様性を重んじる、それは正しいことに思えるし、今現在必要な姿勢だろう。しかし根本的な解決は、そこにはないのではないか。どれも臭い物に蓋をする、対処療法を全員に強いているだけのようにも思える。
取って返せば「バラバラにしないでみんな同じになってしまえばいい、全体主義でいい」「資本主義をやめて、何か新しい共産主義を作ればいい」そんな皮肉も思い浮かぶ。

弱い人々をいかに救うかは、もちろん大切なこと。もう一つ大事なことは、そういう人々を増やさないことだと思う。
人間は、初めは弱くだらしなく何もできない生き物だ。同時に、向上・成長する素地を備えている。問題は、その可能性を十分に生かし能力を育むことなしに、子どもたちを社会に送り出してきてしまったことではないか。人間の底力を見誤って、自由を尊重するあまり、肝心なものを捨て去っているのではないか。「その人らしさを大切に」という名目のもと、発揮可能な能力を萌芽の段階でつみとってしまっているのではないか。あるいは生きるための強さを磨くことに関して、時代と環境に即した方法を積み上げずに来てしまったのではないか。私自身、大人の世代としての責任を感じる。

本来の人間力みたいなもの。堂々としていながらも敬いがあり、傷つけても傷つけられても、ごめんなさい気をつけます大丈夫です気にしないで、そう素直に言い合える優しさと、傷を癒せる柔軟さ・たくましさ、復活する力。それがあってこそ、バラバラな個々を認めることができるようになるのではないだろうか。たとえば、神経質で異様に細かい社会よりも、おおらかで真に幅のある社会。傷を負い、負わせる経験を内省して、思いやる心を育てていける世界。ヒステリックに避けたり取り除くのではなくて、余裕を持って向き合えるような。

なぜか今、「心の傷をいやす自己治癒力」の方については誰も声を上げないでいるように見える。
安直に「気にするな」と言うと「気にしないでいられるか!」と猛反発がくる。皆、ビクビクしている。
今からでも未来に向けて「気になったとしても、忘れたり乗り越えられる力を」という提唱があっていいように思う。念のため重ねて言うが、これはすでに成長した人々へは適応しにくい。かの人々には特別なフォローやケアの方が必要だ。また成長期の世代であっても例外的なケースはもちろんあるだろう。


家庭、学校、職場、地域、すべての場所で、「変わるべき、変わりたい」という切なる思いは常に潜在している。そのためには、もっとたくさんの試みがあっていい。しかし、おそらく多くが失敗するだろう。失敗し続けるのは普通のこと。人は成功を求めすぎている。だから試すことにも慎重になりすぎる。「責任」を持ち出して、誰かの何かのせいにする。「謝れ!」「償え!」と迫ったり、陰でチクチクとイヤミを放流する。それが怖くて、ますます誰も何もできなくなる。
たとえば失敗を生きる、失敗を受け入れ、その上で楽しむことはできないのだろうか。
失敗とは何か、失敗とともに生きることができるとしたら、それはどんな生だろう… また別の機会に考えてみたい。


意欲、と言われる。学び働き、生活し、趣味を楽しみ、人々を愛し、喜びをめざす、意欲。
現代社会には意欲の出しどころが少ない。無理して働いてまで高級な物は買わなくてもいい、贅沢もご馳走もなくて平気、物欲・性欲も適当、その分労働を減らして好きなことをしたい。無気力とも無欲ともちがう、独特な現代性。でも賃金は安いし仕事に張り合いが持てず疲労とストレスがたまる。耐えきれずに心を病む。とても結婚して子供を作る気持ちになれない。結果、少子化が進み社会全体が萎縮していく、悪循環。仕方なくやる・やらされている、という感覚。

書いていて虚しくなってしまうが、日本人の何割かはそのような感じなのではないか。その数字は、たとえば選挙に行かない人の数に似ているかもしれない。
私も物への欲求がどんどんなくなってきて、とりあえずネットがあれば、という傾向が強くなった。とはいえ、そんな自分に飽きつつもある。身一つで何を表現できるか、何を体感できるか。潜んでいた可能性が燃え上がる余地がまだある。一方で、「燃え上がるって何?」という人々に向かって、私はいったい何を伝えられるのか。はなはだ心もとない…。

さまざまな思考はまだ途中だ。
これから先も、さまざまなことを見聞きし、さまざまな人々と共に考え続けていかなくてはならない、と思う。