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こだわりメモ(追記 2024.2.6.)

日記を書くときの 作法 こだわり 。 Blueskyでたずねたら応えてくださった方々がいたので、自分も書いておく(このブログの場合)。 ダラダラ書きをせず、なるべく切り詰める。歯切れ良く。 見やすさのために、「→」「=」「:」や、箇条書きを使う。 2〜3行をひとくくりとして、空白行を入れる。 その2〜3行の文は、できれば長さを合わせる。 以上の「見栄え」をプレビューで確認する。PCとスマホの両方。→ 修正を加える。 上 かみ の句を読んで、 下 しも の句がわかってしまうような文は避ける。ひねりを。 あまりにも口語的な表現は避ける。 あえて断定表現を使ってみる。 リズムに気をつける(文末)。 漢字か平仮名か、気をつける。 可能ならば、表現の冒険や実験をする。陳腐ならやめる。 あとでまた気がついたら追記しよう。(すでに10回以上書き直している。) 自分の文を読み返し加筆するのは、こだわりではなく 性分 しょうぶん 。そうせずにはいられない。 淡々と、でも全体にグルーブみたいな揺らぎがあるなら、うれしい。 【上の記事を書き直した】2024.2.6. 広い河原に、いく筋も小川が流れている。 どの川も歩いて渡れそうだが、 うっかりすると、ときどき深い淵だったりする。 川と川のあいだにはたくさんの小石。 川を渡ったあとでこの小石の原をふむと、 川の余韻がわきあがる。 土手にすわって川々をながめる。 どの川もよどみなく、同じように流れているが、 気のせいか、少しずつ色や輝きがちがって見える。 ときどき管理人がやってきて、流れてきた物をかたづけたり、 流れが良くないところを直したりしている。 ひょっとすると、河原の小石もいじっているのかもしれない。 気まぐれなのか、たまに川の形を変えたり、せき止めたりしている。 しばらく眺めたあとで、またもとに戻すことが多いようだけれど。 この河原はこのブログのこと。 あのおぼろげな影のような管理人は私だ。 姿の見えない誰かはやって来てくれるだろうか。

発想場(追記 2024.2.8.)

発想が浮かびやすいシチュエーションがあるだろう。 私の場合、 部屋の掃除中 目覚めたあと 入浴中、トイレ、その他 あとは本屋も。立ち読みによるわずかな断片が、あとから猛烈に増殖する。 掃除中はダントツに思い浮かぶ。掃除を中断し、急いでメモを取ったりする。 掃除する動きはなかば自動的。体のほうで処理するので頭にスキマができる。 体を動かすことで、脳を含めた身体の全体性が高揚するのかもしれない。 BGMとしての音楽もあるだろう。 音楽を流して、 意識が音に集中し、シャワーのように浴びざるを得ない音楽 意識から音が消え、澄んだ空気のように感じないがどこかで感じている音楽 意識からスッと消える音楽もまた、発想するための良い背景である。 飾られた花や絵画も、同様だ。 そこにあり続けることで、やがて意識からは消える。 消えるけども、見てはいる。脳へ送られる微細な波長、刺激がある。 それにしても、そうやって浮かぶ(浮かばされる)発想は何のため? …脳とは勝手な生き物である。 (追記2024.2.8.) 掃除の大切さ。 先述した「消えるけども、見てはいる」→ 部屋の埃や汚れにも言えること。 脳にノイズが伝わって、わずかなストレスを引き起こしている可能性がある。 また、脳裏でもそのことがずっと宙吊りになっている状態。けっこう疲れる。 つまり 心身が弱っているときこそ、掃除。 普段気になっている場所だけでも試してみてほしい。おすすめ。

あなたから私までの距離

SNSの話。 自分も、自分がフォローしてる人も、日々いろいろある。 状況が変われば、投稿も変わる。 自分の好み>お付き合い(つまり好みを優先) で、私はいいと思う。フォローバックなどの気遣いもいらない。 にもかかわらず実際は、相互フォローだとフォローを切るのがためらわれる。 先日、ある人のプロフィールを見たら、私のフォローが外されていたのを知った。 たまたま私もフォローをやめたいと思っていたので、不思議な感じがした。 その人との関係で何かがあった心当たりはない。 私は相互なのでためらいがあったが、その人はどうだったのだろう。 …などと、考えている自分は好きではない。 その後、その人の投稿を読む自分の感情が以前より冷めているのを感じて、それも不気味であった。 …「不気味という自分の感情」を見ている自分も好きではない。 インターネットにいると、そういう少ない情報を通じて、自分が形成される。 さまざまに意識する自分や、他者の印象で作られる自分。 前回、私が読んでいる日記のいくつかについて感想を書いた。 私というただ一人の感想だが、それを読んだ日記の作者に影響を及ぼしたかもしれない。 そう考えると、心の中でチリチリと 焦 こ げる音がする。 何かをすれば→何かに伝わり→何かが起こる。変わってしまう可能性もある。 それは避けられない。面白いとも怖いとも言える。 自分の世界として収支をつけたいのなら、森の奥深く何もない空間で咲いていればいい。 そうでなければ巨大なステージの端っこに躍り出ていき、滑稽に真面目にやればいい。 今までにも、自分の中でおなじ問答を繰り返してきたような気がする。 年齢も景色も変わっていくのだけれど。

名前エンドレス(改稿 2024.2.8.)

自分の名前(アカウント名)が決まらない。 考えても考えても考えすぎの陳腐な名前が浮かぶだけ。それが重すぎて苦笑してしまう。 物とか動物とかおかしな名前の人々がいる。初めてのオフ会や有名になったとき、彼らは後悔しないのだろうか? ユーザー名(@英数字等)も同じ。 考えたものは先に誰かにとられている。たくさん候補を考えてはまた時間をドブに捨てる。 …すべての命名は失敗なのだ。 そこで、名前の前に「まず何がしたいのか?」と自問する。 読書感想文、メモの蓄積、詩、日常、考察… おそらくは 新しい言葉の表現 をしたいのだ。 絵はやめてしまった。絵でしていた表現を文でしたいのか?  …それはまだよくわからない。 今日は名前が気になってブログが書けなかった。 名前。燃える命。 主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。だから主体は自分の象徴的称号に疑問を抱く。これがヒステリーだ。「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」。あるいはシェイクスピアのジュリエットの言葉を借りれば、「どうして私はその名前なの?」  (スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p.63) どんな名前もそのものすべてを語るには及ばない。 実態と名称はつねにすれ違う運命なのだ。 

日記の記(追記 2024.2.4.)

私の読んでいる日記について。各位、Blueskyの方たち。 列挙してしっかり感想を書こうと思って始めたが、何だか 大袈裟 おおげさ なのでサラッと書こう。 雪原さんの日記は、タイトルロゴも含めてオリジナルの佇まいで、好き。サイトはHTMLを手打ちしてるらしい。思い浮かんだ発想について考えを広げ、それを丁寧に書いている。思考の散歩のような、穏やかなリズムを感じる。ことばが広い野原に降りつもっていく。 iggyさんの日記は、ダダ漏れにちかい口語調。感情が文字の上で踊っている。とてもおしゃべりな日記、目の前にいて話を聞いているみたい。飛びかう言葉に、読んでいて意味を見失うことがある。それは「言葉の裂けめ」に足をすくわれる心地、その不思議さも味わい。 sanmalさんの日記は、簡潔で小気味いい。でもしっかり生活を感じる。朝起きてから寝るまで、料理の献立、家族のお世話。家庭を守っているバイプレーヤーなのだろう。かたわらに添えられた短い感情表現も、親しみを感じる。ご健康を祈ります。 もてこさんの日記は、ドライな響き。俯瞰して見ている。自分の感情も俎上に上げて表現できる。筋が通っている。でも、その筋は堅苦しくない。サバサバという表現が合っているかもしれない。がんばれ、とも、がんばった、とも書かれてはいないが、気持ちが落ち着く。インターネットに放流された小瓶の手紙、しっかり受け取りました。 ハザマさんの日記は、ライフログというかまるで詳細な日常報告書。出来事から思ったこと、行動までよどみなくつらつらと書いてある。一言で表すなら「ガハハ」だろうか。機嫌良く、楽しく、たまに怒っているけどそれもまた面白く読めてしまう。食べる、仕事する、遊ぶ、眠る、その流れがハザマさんという個をつらぬき一体化している。見事としか言いようがない。 ・・・結局、列挙になってしまった。 皆さんに共通する良さは、表現力と言葉の選び方、鮮やかな視線など。敬服します。 もし「おれの日記は?」という方がいらっしゃいましたらご連絡ください。 (追記 2024.2.2.) ohesoさんの簡単日記は、簡単だが要領を得ている。数日読んだだけではわからなかったが、たくさん読んでいくと全体を漂う雰囲気が見えてくる。簡素がゆえに、時おりまざるペーソスのようなものが小さな刺激になる。 (追記 24.2.4.) raumiさんの日記は...

認知症ブルース

認知症の人が誕生日。 寿司や食べ物をたくさん買って渡した。 花よりダンゴ式。 認知症の人は私が言った年齢をズバリ否定して、一歳若い年齢を断言した。 おかしいなと思い、念のためネットで調べてみると私の方が正しかった。 自分の誕生日もわからなくなるような人間、歳もズバリとまちがえる。 そう言う私もたまに年齢がわからなくなる。30過ぎたころからあやしくなった。 人のことは言えない。 私はその人から、おまえも頭がおかしい、と断定されている。 私の周りの人に、あいつには大事なことを決めさせるな、と陰で話しているらしい。 それなのに、その人は私をあてにしている。 哀しいことだ。