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10月 20, 2024の投稿を表示しています

まけてたまるか

人とのやりとり、トラブルや課題、生活や仕事など、戦いを強いられる場面はある。 相手や対象がある場合、それが自分自身の場合、あるいは、具体的な相手がないこともある。 戦うからには勝敗がある。 そもそも、 勝敗を決めるのは誰か? ジャッジする審判はいるのか? そこにルールはあるのか? 正義とか悪とか、そういう善悪の線引きをしたいのだろうか? それとも守りたいものを守るためだろうか? 戦いには競争の臭いもある。 戦いの結果、 勝者が得るもの、敗者が失うもの 勝者が失うもの、敗者が得るもの、は何だろう。 勝者と敗者が決まるのなら、それにより上下関係や力関係が生じるかもしれない。 優劣や、正義・不正義が定められてしまう可能性もある。 反対に、たまたま勝ってしまって気まずいと思う勝者もいるだろう。 それはそれとして 戦う者は、本当は、誰と・何と戦っているのだろうか。 「まけてたまるか」という表現もある。 負けないと言っている。 勝つと言っていない。 不条理さに押しこまれているが、しかしそれは押し戻してゼロにすればいい。 そのために負けないことを掲げる。 「まけてたまるか」には、「まけない」「まけたくない」より、胆力や意気を感じる。 「たまるか」に、今は 分 ぶ がわるいけれど、それを克服するような踏ん張りを感じる。 小学校の徒競走で順位をつけるのをやめた、という話を聞いたことがある。 それはそれで根本的な何かを勘違いしている、とは思う。

お盆の後日談、さらに後日

前回の続き。お盆の災難と、その後日談。 振り返ってみれば、私が遠方へ法事で留守のあいだに、年寄りがうっかりミスで転んだだけの話。 それで這いずり回って数日過ごし、部屋をすさまじい汚部屋に変えつつ、やっと救急を呼んで入院。入院は2ヶ月。前半は打ち身の治療、あと偽痛風と軽い感染症があった。後半は転院して簡単なリハビリ。汚部屋の大掃除については前回書いた通り。 入院中から、全力で今後のケアの策を講じた。ソーシャルワーカーと打ち合わせし、役所経由でケアマネージャーを紹介してもらう。その間、介護認定のための手続きを迅速に。用具屋が来て手すりなどの取り付け。今後の見守りなど、ケアプランの打ち合わせ、諸々の契約など。 すべては終わり、何事もなかったかのように、年寄りは元の穏やかな生活に戻っている。 私もこうして振り返りのブログを記している。 やるべきことはやれたと思う。 その自分の気持ちは、どんなものなのだろう。 義務、だけではない。 孝行、とはちがう。 思いやり、なのか。 優しさはそこにあるかと言うと、むしろ厳しさのほうが強い。 自分に対しても、親に対しても。 ケアマネージャーに質問された。 「お子さんとしては親御さんにどんなことを望んでいますか?」 私は、健康的に前向きに残りの人生を気ままに過ごしてほしい、と答えた。 そのために普段からハリのある生活を自覚的におくってほしい、とも。 寝たきり予備軍である以上、低きに流れるだけの自堕落な生活では身を滅ぼす。できることをできる範囲で、精を出してほしい。無理は禁物だが、フヌケも良くない。 何十年かすれば我が身でもある。 そのとき私は、どんなふうに思って老体を引きずりながら生きているのだろうか。 やっぱ無理ぃ〜 などとほざいているのだろうか。