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感想『逸神』

『逸神』(二礼樹・著、小説新潮2025年2月号掲載) 不条理に運命をもてあそばれそうになりながらも己を保つ、進まざるを得ない。覚悟などは後から付け加えるものにすぎない。この物語には幸いなことに、ともに歩む者がいる。優しさがある。弱さもある。ミステリーや謎解きとは少し違ったところに作品の意味が置かれている、濃密で鮮やかな労作だと思う。 私は作家の立場も想像しながら読んだ。文筆とは、孤独で心細くなんとけわしい作業なのだろうとしみじみ思う。 〈以下、私が受けた印象や考えたことを列挙しておく〉 語彙の選択は巧みで品位があり老練さをも感じさせる。もう少し漢字遣いを柔らかくしてもいいくらい。 杏寿に深い業が眠っていることは想像に難くない。現在は兄に似ているがいつか暗部を炸裂させるような物語も読んでみたい。キャラクター性の強いペアなので愛読者からは続編やシリーズ化を望まれよう。 男女の性差の選択はこれで良いのかどうかはわからない。たとえば堕天狗は体躯が頑丈でありながら女性であること。それによって表現できるものは何だろう。 天狗は嘘をつかない、という縛りが面白い。嘘にも本当にも限界があって、そこをどう読むか(読ませるか)。 「うけたもう」決め台詞のよう、引き締まる。 「ただの記号のような言葉だ」この手の表現が好き。 「その褐色の肌のなんと美しいこと!」暗い色にも関わらず闇でも分かるのだから、大気のわずかな光の粒をすべて捉えて艶やかに反射しているのだろう。 第5節の「なぜ一度も疑わなかったのですか」の一文が浮いてしまっているように感じた。 「橙色」が心地よく目に留まる。(たまたま近作で自分も使っていた。) 「どばり」のような擬音の使い方も好き。擬音は多用しにくいが動きが出る。 終盤は天狗、私、孔雀の三つ巴になる。読む足がもつれたように思う。もっとも掲載誌による「絡まる謎を解いて」という特集なので、綱を編むための縄をあえて3本にしたのかもしれない。 孔雀は…? 最後に気持ちはふと迷子になった。私の読みが浅いせいか。 「私」の語りについて、全体を通して揺れている感じがある? 一人称語りは厄介だ。作家の視点なしに「私」から離れた他者の行動をどう描写したらいいのだろう。たとえば仮定法にするとして、語りや筋立てが弱くならないのだろうか。(過去が明かされる第4節は三人称語りとなる。)作中の、「一...