自分は好きか嫌いか
自分は、自分が好きなのだろうか。 自分が好きなところ、好きではないところ、 どちらもあるだろう。 まずはじめに、その自分は本当の自分なのか。 本当の自分があるとして。 自分が思う自分は、ほんとうにその通りの存在なのか。 我思う、ゆえに我あり(デカルト) 君思う、ゆえに我あり(レヴィナス) ニーチェ、ヒューム、フッサール(呪文?) あとは沈黙になりそうだから、とりあえず、自分〈仮〉であるとしておこう。 自分〈仮〉を「好き」とか「嫌い」とか思う自分は、どんな自分なのだろう。 「自分が好きと思える自分」のことは好きなのかな。 などと、無限の階層、無限の入れ子になってしまう。 自我とか超自我とかいう構造を思い浮かべるけど、 自我のなかにも自我がいたりしませんか、フロイト先生。 自分〈仮〉は言葉であると言ってしまえばいいのかもしれない。 言語は 齟齬 そご であり、どうがんばっても表現には限界がある。 あなたと私で、同じ言葉でも色がほんの少しちがっている。 言葉であらわされた自分は、ちょっと解像度が低い。 粗い。ぼやけている。ぶれている。揺らいでいる。 おや、 いい感じじゃないですか、これはこれで。 どんな自画像もポートレートも自分じゃない。 自分らしく見えるとしたら、それは心で受け取っている方のこと。 心がこころを見ている。 揺らいでいる、野の花のように。 そういう自分なら、好きだと思う。