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2月 11, 2024の投稿を表示しています

メメント・モリ(死を想え/現実編)

ご注意:痛々しい表現を含みます。 死について。 今までの経験や体験をふまえて思うこと。 たいていの病死は、全身が等しく衰えるより、ある部分が機能しなくなることで迎える。 頭は健康なのに癌が内臓に転移した、心臓は元気なのに脳卒中、等々。 つまりは殺されるのである。 神経は生きているし、健康な部分もたくさん残っている。 にもかかわらず、死に至らねばならない。その苦痛は並大抵ではないと思う。 最期はぜいぜいはあはあ、激痛にのたうちまわることも少なからずあるだろう。 かつて誕生の苦しみをくぐり抜けて、おぎゃあおぎゃあと産声を上げた。 おなじように最期は死の苦しみを経て、ふたたび大地へと還っていく。 多くの人々はそれを避けられない。平等に訪れるもの。 しかし恐れてばかりもいられない。生きるしかない。生かされている。 さて。現実的な問題。 あとに残された近親者。 相続である。 もちろん葬儀やご挨拶、諸々の届出、変更手続き、物品の整理やあとかたずけもある。 しかし相続は、場合によってはそれ以上に厄介だ。 相続手続からは誰も逃れられない (たとえ海外国籍を有していても。日本では、被相続人が日本国籍であれば日本の法律に従って相続がおこなわれる)。いくら「縁を切った」と言ってみても戸籍上は残る。血のつながりは絶対に断てないのである。戸籍謄本、凄まじいものだなとさえ私は思った。 相続財産。 お金だけとは限らない。土地・建物、株式、車・貴金属から、借金・クレジットの債務にいたるまで、途方もない。「負の遺産」まで背負わされるとなったら泣くに泣けない。総額の大きさ次第では納税義務もある。 まだある。 相続人は 「遺産分割協議」をおこなって「遺産分割協議書」を作成 しなくてはならない。(法定相続人が一人の場合は不要。また正式な遺言書が作成されていればそちらを優先し、家庭裁判所に遺言書を提出し検認を受ける義務がある。) 「遺産分割協議」:相続人全員で話し合い、全員が納得→遺産分割協議書を作成して遺産を分割する。 遺産分割協議書には、法定相続人全員の署名と実印の押印が必要。 (遺産分割協議で全員の納得が得られない場合→家庭裁判所へ申し立てをおこなう。) さらに厄介なケース。 例えば亡くなった親に離婚歴があり、前婚者との間に子供がいる場合など。 私の知人にも、義兄弟がいるのを知らなかったというケースが...

無-力

情緒的 コン アフェット に。 裏拍。 「ンタ、ンタ、ンタ、…」の「ン」。 無音から入る。ない・あるの順で、ないに気がつく。 あるいは演奏後の静けさ、その一瞬。『4分33秒』ジョン・ケージも。 余白。 狩野探幽、長谷川等伯、尾形光琳、あのたぐい。茶の湯、花道も。 (私なら小村雪岱。だが雪岱は余白というより「間合い」かな。) 残余。 小川国夫の短編小説。情感がのってきたところでバッサリ終わる。 締めくくりや余韻を味わえるような言句もない。 読み手の感情は、行末から白い空間に放り出されて風邪をひく。 沈黙。 このためのこの記事。 さまざまな沈黙にあって、罪も圧力もなく、心を引き寄せる沈黙。 それは映画の象徴的なシーン。 うんざりしたようにため息をつく同僚(上司ではあるが)に、 「どうかしたの?」とも「よかったら聞かせて」とも言わずに、 彼はただまろやかな眼差しで、少しうなずくだけなのだ。 話すつもりがなかった彼女も一瞬で降参、事情を語り始める。 この場面、沈黙が会話を見事に引き出している。 雨。 「雨が降り出した」という。 そうだろうか? この雨は、いつか降った「あの雨」が止んでいただけなのだ。 止んでまたその続きが降ってきたのだ。 と、そう考えることはできないだろうか? 「あるからないのではない。 ないからあるのでもない。」 …は、 「あるからないのである。 ないからあるのである。」 そんな、無の引きこむ力、 惹 ひ かれる力について。

仕事ふりかえり

(今回は言いにくいことも書き、私の主観が強く出ています。ご了承ください。) 仕事。 「できればせずにすませたいのですが」。 バートルビーの有名なセリフ。それは死の香りをまとっていたのだが。 働くのが当たり前という思いこみ、教育、社会的要請、世間体。 当時、何の疑いもなく、皆と同じように社会人のスタートを切った。 開発職希望にもかかわらず営業職に配属。荒波にのまれ苦しむ日々。 自分磨きと割り切って3年我慢。部長に直訴し、やっと開発部へ異動。 その後もいろいろな部署へと転属した。ピンチの部署へかり出される。 最後の営業はさすがに限界で、外回りせずに会社にいた。成績も惨憺。 思い詰めたあげく、一応の円満退職。フリーランスへと抜けた。 会社に尽くしたつもりではあるが、会社・社会に育ててもらったのも事実だ。 会社や社会に育ててもらえるように、自分で努力した と言えるかもしれない。 言表は、ほんのコインの裏表に過ぎない。 とにもかくにも 暗くて厳しいトンネルをくぐり抜けたあとの、空の青さよ。 すべてはバネになる。 フリーの仕事は楽しい。趣味をしながらお金をいただいている気分。 とは言え、例えるなら、好きな食べ物を毎日食べろ、1日で10人前食べろ、という世界。 でもそれは我慢できる。営業先で胸ぐらをつかまれてこの野郎!と言われるのとはちがう。 (会社時代のエピソードは多い。窓から飛び降りようと決意した日もある。たまたまその日は平穏で、死ぬことはなかったが。) 学業でも仕事でも、意義があるのか?ないのか?はよく問われること。 結果や結論は永遠に出ない。因果関係をただせば、どうにでも言える。 今は失敗だったと思うことが、10年先には見方が変わることもある。 〜のせい、〜が原因、などと因果をとなえることは無駄だと思う。 思えば、幼少期から高校までも泣きたいような日々だった。いじめもあった。 経験や体験を捨て去ることは困難だ。生かすもこだわるも無視するも自分の心次第。 私は抱えこまないし後悔もしない。自分の大切な時間が失われて馬鹿馬鹿しいから。 引き出しにはしまってあるので、フラットな気持ちで取り出して考えることはある。 私は鈍感なのかもしれない。 繊細であることを捨ててきた。 ただ、心の底には炎はまだ燃えていると思う。 炎を良かれと思うことに使おうと思っている。 そのために考え、想像し...

出したい、その出し方

出力、表現、創作である。発露。 言葉にする、文にする、絵にする、音楽にする。 「さて…」と思ったとき、もし 思い浮かんだものが、枝葉のように広がったら 具体化したい。具体にしたなら、人へ伝えたい。 絵。 やめてしまったが、先のことは考えている。 トプカプ宮殿。紋様の美。図とか地じゃないんだよね。 そこにあるグネグネしたもの。 それが空間を埋めつくすように広がっていく、快感。 以前私は絵を描こうとして、人間や意味的事故を描いた。 よくわからないが面白い、そういう文脈を追求してきた。 紋様はどうか。広がっていって、何も語らない。 生きるためのただの背景だったりする。 壁でも絨毯でも折り紙でも良い。 曼荼羅。曼荼羅?と気持ちが動くことはあった。 しかし曼荼羅は曼荼羅、ちがっていた。 紋様は、いつか描くことになるだろう。 文。 ライティングの授業を受けたこともあるが、うまくはない。 うまくなりたくはない。 そつなく読ませる文章、オッと思わせるエピソードを挿入、 効果的な言い回し、落とし所… そんなのは気持ちわるい。 ぎこちなく直情的で、すうすう抜けがあって、バサッと終わる。 たとえばそのような文を書きたい。 筋は通っているがメビウスの輪のような構造をしている、とか。 文末まで読み、すぐまた読み返したくなる駆動系を内包している、とか。 文は体=文体なので、身をよじりながら生み出せばいいのだろうか。 写真。 いまだに取りこめないし、飛びこめない。 カメラは魅力がある。高くはないが望遠の効くコンデジを買った。 街を何枚か撮って、一言そえて作品にした。すぐに飽きた。 アレ、ブレ、ボケ。呼吸するように撮る。俺たちは天才だから、 と言い合える荒木森山をうらやましく思うこともあった。 写真が何なのか、いまだによくわからない。 写真集や写真論は面白く読むけれど。 自分の写真より、実際に目で見て感じたものの方が圧倒的だ。 そうではなく、写真ならではの何かはきっとあるはずなのだ。 音楽。 音楽の授業が嫌いだった。演奏は間違えてばかりで、 音を出すふりをしたりしてやり過ごした。苦しかった。 楽譜など読めようはずもない。 機械の力を借りて、電子的な音楽を作った。すぐに飽きた。 友人が「好きなように弾けば良いんですよ。俺はそうしてます」と言ってくれた。 楽器は美しい。音色も、音楽も。それは間違いない...

獣の眠りと血

寺山修司全歌集を読む。内、2首。  「わがうちに 獣の眠り 落ちしあとも 太陽はあり 頭蓋をぬけて」 獣が眠りに落ちた、とある。眠ったのではなく、猛るままにやむなく眠りの淵へ引きづられていったのだろう。 しかし太陽はおかまいなしに照り続けている。唐突な「頭蓋」に思わずハッとしないか? そこだ。 絶対的太陽の存在、心も身体も晒されるどころか直に突っこんでくる陽光がある。歯ぎしりしながら眠る獣の喉笛に、 刃 やいば を突き立てている。獣に安眠はなく、日は沈むこともない。 (自分の中にいる獣、が少しもの足りない。眠りがある、なら鋭利か。ところで鋭利はなぜ「利」なのだろう。)  「屠たる 野兎ユダの 血の染みし 壁ありどこを 向き眠るとも」 屠 ほふ るという行為は、昔なら生活の一光景だったのかもしれない。今見ると冷たいものが背筋をなぞりあげる。 「殺す」でないのは、それがイエスの肉となるからだろう。「屠る」を用いたので「野兎」を置かねばならなくなった。兎という言葉も無垢な漂いがある。ユダは憎まれながら愛されている。 しかしその血は、無情だ。ユダの死そのものより露骨で、生々しい。その符号がどこを向いても目に入るのだから、たまったものではない。そういう定めを負う。(負う、背負う、は「負ける」と書く。) 負っているのは、誰か。