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6月 29, 2025の投稿を表示しています

修正論

正義とは何か。多くの人にとって正しいと言えそうなこと、だろうか。 「理にかなっている」の理とは何か。道徳やモラルは誰が決めているのか。 文化・文明・宗教・教育の違いが、全く異なる価値観や対応を生み出している世界、個々人でもたくさんの差異のあるこの世界で、人間は何を言おうとしているのか。 それでも言わねばならないし、決めなくてはならない、行動しなくてはならない。 選んだ理由を説明しなくてはならないこともある。 世の中を見渡すと、主義主張を変更することを極端に嫌い過ぎているのではないか、という印象がある。 撤回し、反省し、謝罪し、訂正し、次へ進む。それは悪なのだろうか?  重要な立場の人ほどそれが許されずに、批判の嵐にさらされがちだ。 岩のように強く同じ主義主張を貫き、立場を維持し、実行し、責任を果たしきる…当たり前のように求められるが、実行はとてつもなく難しいと思う。 一つの発言に、その人の全歴史・全人格・全知識・全経験・全繋がり、はては未来や可能性までも当事者に乗せて決めつけてしまうのは酷ではないか。人をそのように決めつけたり否定する権利をいったい誰が持っているというのだろう。 たしかに約束事として、おたがいの言葉や行動を受け入れて信頼する、その前提があってこそ私たちは繋がりが保てる。 しかし同時に言葉は、刹那的で不十分で淡いものでもある。密に、まめに、やり取りしなら、変化があればそれも共有しながら、流動的にやっていけたらいいと思う。

失敗論(改稿 25.9.5.)

あらゆる場所で、「変わるべき、変えたい」という願いは常に潜在している。 しかし人は成功を求めすぎている。だから試すことにも慎重になる。 責任を誰が取るのか、損失をどうするのか、皆の意見も一致しない。 宙ぶらりんのまま、申し訳ていどの手直ししかできない、そのジレンマ。 もっとたくさんの試行錯誤がなされていい。 おそらく多くが失敗するだろう。失敗し続けるのは当然のこと。 失敗とは何か? 何だろう。 それすら定義できずにただ失敗失敗と決めつけている。 原因と結果、そんなふうに簡単に因果など結べるものか。 何をもって成功といえるのかも怪しい。 ──ロケットが無事に打ち上がりました。成功です。 実はそのシステムはあまりよくなかったのですが、成功したので採用されました。 結果、そのロケットは長くは運用されませんでした。 新ロケットの開発にまた莫大なコストがかかりました。 これは成功か? 失敗することで開ける道、見えてくる道がある。話し合うこともできる。 路線を変更し、修正し、失敗や損失の穴埋めも皆でやらなくてはならない。 もしかすると、成功するより失敗を生かす方が難しいかもしれない。 それでもまた挑戦する。あるいは自分たちがだめでも他の誰かへバトンをつなぐ。 失敗とその責任者への罵倒が激しすぎるのだ。 批判するエネルギーを改善策に回せ。言い放しで何もしないのは不毛だ。 失敗を殺すな。恐れず黙せず、できることを考え続けたい。