他人の他人さんへ
ちょっと狭いことを書きます。私の気持ちの整理です。
SNSで投稿を読んで、まれにイライラしたりへこんだりする。そういう感情が起こるのはなぜか?
そのひとつに、他者(特に家族や親戚)への憎悪をぶちまける激しいトゲトゲの言葉がある。暴言でも、あっさりさっぱりしていたりユーモアがあれば、動揺せずに読める。しかし生々しく手きびしい批判には、気分を害される。痛いし、反論したくなる。SNSの場合、やむをえずモデレーションしている。
まず言えるのは、情報が足りていない。
私は、ネット上のその人の言葉しか知らない(実際にお会いしたことがなければ)。
言葉はよくその人を表す。でもその人(Aさん)のことを私はよく知っているわけではない。ましてAさんが嫌っている人(Bさん)については、さらに情報がなく、Aさんの言葉を通じてしか理解が及んでいない。AさんとBさんの具体的なやりとりについても同様だ。
その段階で、まったく見知らぬ人であるBさんのことを、無関係な私は断罪できない。
むしろ、「本当にそうなのか、Bさんの立場から見たAさんはどうなのか」「実際のやりとりはどうだったのか」を想像したくなるし、想像することでAさんに非難の目を向けたくなることさえある。
しかしそれもまた、無関係で情報不足の私であるので、行きすぎた発想と言える。
同情と、親近感についてはどうか。
Aさんのその他の発言がすごく好きだとか、実際にAさんと会って楽しく過ごした経験があるとか。あるいはAさんの話に似た経験をしている、共感が強いなど。それによってAさんを支持したくなるかもしれない。信頼度、親近感、好感やひいきの感情。「Aさんが正しい、Bさんは良くない」と。
しかしBさんに関する直接の情報はあいかわらず欠如したままだ。バイアスにすぎない。
こういう考えもあるだろう、「Bなんて人は知らないけど、Aさんに同情する、ただそれだけ」。見知らぬBさんには無感情。考えたってわからない。とにかく、そこにあるAさんの心を大事にしておく。
Bさんのいる側の世界は無視され、放置される。
「そもそも何で私がBさんのことを?」である。話を聞いて「なにそれムカツクー」でおしまい。それでいいのかもしれない。
私は「実際のBさんの気持ちはどうなのだろう」と想像をめぐらさずにはいられない。
「そんなの決まりきってるじゃん」という前提に立った他者に対する厳しい批判には、「本当にそうなのか?」という気持ちを抑えられない。
(付け足しておくと、この記事では何が正義かは問うていない。正義は相対的なものであるし、どんなことにも例外はある。)
こんな想いが湧き上がるのは、Aさんのきつい言葉に誘発されてのことだと思う。
かと言って、私の思いをAさんに伝える気もない。Aさんは、実にAさんであるのだから。私が私でしかないのと同じ。
ゆえに私の心は、私のお腹の底にしずかに沈殿するだけだ(今回はこのブログに結んだけれど)。
すべては単に私の考えすぎ、愚かさゆえであるのかもしれない、が。