手紙と贈答

手紙を書く。

好意をのせた手紙、たとえば好きな人へ。
好きになりたい・なってほしい人へ。
あるいはお世話になった人へ。
気になっている人へ。

そのような手紙は押し付けだろうか?
一方通行のコミュニケーション。
確かに、もらった人が喜んだりありがたいと思うとは限らない。

──返事を書くのは面倒だな。うまく書ける自信がないな。
──返事は書かないが、悪く思われないだろうか。
──気を遣わせてしまったな。申し訳ないな。
等々。

これは贈り物にも言えること。
言葉は読めば流れてしまうが、品物はずっしりと残る。
一方で「消えもの」もある。消費して後に残らないもの。葬儀のお返しとして選ばれる。そうは言っても、食べ物なら体内に入れるし、石鹸や洗剤なら肌に触れる。
選べるカタログギフトさえ、欲しいものがあるとは限らない。
仕方なくあらかじめ本人の要望を聞いてそれを贈る。それは贈り物だろうか? 金銭の負担をしているだけではないのか、とも感じる。

私は、贈答とは、心の「かたち」であると思う。
慣習、礼儀、儀式、伝統、作法、などと似た系列に含まれるもの。相手に必要か有益かは二の次。いただいた好意や行い、こちらの喜びや感謝やお詫び、それらの気持ちを乗せ、自分の懐の負担や手間とともに渡すもの。

ありがとうございます、よろしくお願いします、とても喜ばしいです、大変申し訳ございません…と真心と誠意で頭を下げる。謙譲の礼と心のまことを示すこと。しっかりとした態度と表明でもある。

とても厳しい。本来は。

居住まいを正し、正される、その交信こそが贈答なのではないか。
仁義と言っても良いかもしれない。「仁義」とは「仁を切る」でもある。

「いらないものを送ってきて不愉快だ」などと言える隙などない。
贈り主にも、相手の感謝や恐縮を求めるようなことがあってはならない。
いずれも甘えや傲慢に思える。
また、うわべだけの、贈っただけ受け取っただけということなら何の意味もない。

「贈る」も「送る」も、自分と相手の垣根をこえて臨んでいく行為である。
見えない壁をこえていく、これもまた「祈り」であろう。

届けたいのは品物でも言葉でもなく、まぎれもない「この思い」、一点なのだ。