ねぎらい・表現・露出(自分、自分、自分!)

今朝、SNSで書ききれなかった長文や思いを書いておく。このブログはそのための場所なのであった。

◯ねぎらいのことば、ねぎらう気持ち
心に苦しみを抱いている人へ、絆創膏やキズ薬のようにねぎらいの言葉をとどければ、その人はきっと喜ぶだろう。SNS上のコミュニケーション。しかし治るのは自分の中の治癒力があってこそ。そうでなければ、絆創膏は対処療法でしかない。もし対処療法なら、ずっと先まで何度でもお付き合いしてあげるのが筋ではないだろうか。

私はやさしい言葉は届けない。でも「どうすればその人が本当に回復するんだろう、私に何かできること、届けるべき思いはないのか」と真剣に考える。たいていは遠くから見守ることしかできない。そんな事情はいちいち説明しないので、おそらく私はただの「つまらない人」と思われて(それすらも思われないで)終わる。

たまにそれが寂しいと感じる。
心配する気持ちも、心配している事実も、それで寂しくなるのも、すべて私の身勝手。どうするでもなく、ただうっすらと諦観のようなものが広がっていく。
私はカウンセラーにはなれなかった。

◯表現されなかったものたち
この世には「おれは小説を書きたい、書きたいが書けないとわかっているので書かない、でもいつか書きたい」と言いながら書かずに亡くなってしまった人は多い。バートルビー症候群というくくりで書籍になっている。
自分の中の欲望に、表現という体を与えたいのだと思う。

おなじように、誰かの「発せられないまま膝を抱いている言葉」というものがある。自分のことならともかく、他者の「言われなかった言葉」には、なかなか気づけない。映画やドラマでは気づいている人がいる。その気づきとて、ストーリー上は正しい気づきとして扱われるが、現実問題としてそんな都合の良い正解などは自他ともにあり得ない。

そこまで考えてしまうと、先ほどの「やさしい言葉がかけられない」という私の態度になってしまう。
真のカウンセラーなんているのだろうか。

◯詩を書く衝動
私は詩を使って自分の奥底の恥ずかしい欲望や汚らしさや暴力を、世界に向けて露出しようとしている。けれど、言葉は散らかるばかりで輪郭が見えてこない。そのように詩を利用して、詩に対して申し訳ない。

ただ、突破したいという衝動だけがある。

何を?突破?

良い子の自分、悪い子の自分、プラスマイナス零の、何でもない自分。
現状、まだ自らをつつむ殻があり、自分はその膜あいを行ったり来たりしている存在に過ぎない。ちゃっかり大人の顔をしているが、まだ生まれてさえいない。

おそらく死の瞬間に、生まれられるのだろう。生成と消滅は同時なのだ。