友だちと孤独(24.10.23.追記・変更)

友だちとは何だろう。
私の場合、

最強)多くの時間をともに過ごせる、そばにいて安心する、うれしい、ありがたい。

かなり強)プライバシーや嫌なこと恥ずかしいことも共有できる、安心感と信頼。

まあまあ強)思考の面で、深く共感したり柔軟に反論し、考えを練っていける。

ありがち)感情の面で、共有できる。しゃべって、聞いてもらって満足。

ありがち)気軽に連絡を取りあえる。短信でいい。数年に一度、会う。

弱)たまに思いうかべたり気になる。会うことはほとんどない。

番外の最強)食事を「気ままに」一緒に楽しめみ味わえる人。人を気にしながら食事するのがイヤという、私の方の問題を超越して来るような人。いまだに出会えたことなし。


「友だちって、増えるとその分減るものなのか?」と嘆いている人を見かけた。時間や手間をかけてつながり続けるのが友だちなら、そういうこともあるだろう。


現在、私にもほんのわずかだけれど友のような人はいる。しかし気楽な付き合いではない。敷居が高い、気を使う、すぐ疎遠になる。友だちと呼べるのか、あやしい。

今日も私の友だちは目に見えないまま、どこかに居続ける。いや、そうだろうか?

自分では「可能性」は、ある、と思っている。
可能性を残したままなので、孤独でも気が楽だ。

結局、孤独を作っているのは、自分。
心のどこかでは孤独になりたがっていて、それで孤独。


ハンナ・アーレントは言っている
「孤独」と「ひとりぼっち」は違うのよ、と。

「孤独」は、かけがえのない自分がある。人と楽しく話せるし、その会話で分裂した自己を、再び一人に戻すことができる。能動的な振る舞いがある。

「ひとりぼっち」は、人との付き合いができないがゆえに、疎外されている、見捨てられていると感じる。自己を見失い、自信がない、世界への信頼もない。


たまに想像したくなる
すべての血縁や家族がない、完全に一人の世界。
田舎に住んで、何にも属さず、ネットの細い線一本、近所の頼りないスーパーと内科が生命線。
あとはたった一人で自由…

ふと思った
可能性って、心の平穏のための担保だな。