心 - 言葉 - 声

過去に起きたことの記憶は良しとして、そのときの負の感情までが何度もよみがえると心によくない。

客観的に出来事をふりかえり、感情は切り離す。
それができないのなら、できない理由があるので、それを探る。
できないをできるに変えるのは困難でも、理由を知ることで納得しいちど問題を手放す。

しかし、心の問題を心の中だけで処理するのは、やはり難しい。

心のトラブルは、外の空気に触れさせてやらないと解消されにくい。
心を世界に「さらけ出す」必要がある。

心には「心を手放したくない」という防衛本能のようなものがある。そのしがらみを解き放ち、無事に心が流れ出すように手助けをする、それがカウンセリングの技法だ。

もっとも、私はそれがまどろっこしい。フロイトからすでに百年たっている。
口先だけ(でもないのだろうが)の会話で、心のコリがほぐされるものだろうか。

新しい手法はないのだろうか。
自分で奥底に手をつっこんで、ベロベロっと出してやりたいくらいだ。

考えられるのは、身体性を使う方法。
叫ぶ。とともに、ころげ回る、手を振り回して怒る、めちゃくちゃに走る、狂ったように踊る。
普段、まったくやらないようなことを派手にやる。非日常的な動き。
恥ずかしければ恥ずかしいほど良い。大丈夫、誰も見てはいない。羞恥心など動きで吹き飛ばしていく。

ストレッチとかジョギングとか、そんな格好のいいものでは収まりがつかない。
あるいはヨガや太極拳なら効果があるかもしれない。それらはちゃんと変なポーズをしている。
ただ、声が足りない。(そのかわりに呼吸をコントロールしている。)

声に出す、言葉を発する、それはその言葉を「客観的に聞く」ことでもある。
自分の思いを、世界の空気を振動させて自分で聞く。世界(自然)の中をくぐり抜けたものは、客観性を引き寄せてくれる。言葉の意味・思考を浄化(客観視)できる。



人前でしゃべりながら、「何で自分はこんなことを言っているのだろう」と思うことがある。
そんなとき、自分の言葉に、意識があとから追いついて、その内容に驚いたり納得したりする。
世界が体に入りこんで、言葉を引き出しているのだ。

自分が、自分自身から少し浮上している。

自分の中の言語(感情さえも言語で操られることがある)が、よくない方の自分らしさによって腐敗することなく、世界と重なりあっている。美しいというか、自然にありのままに、何でもない自分を再発見する。