あなたから私までの距離(2025.1.11.追記)
SNSの話。
自分も、自分がフォローしてる人も、日々いろいろある。
状況が変われば、投稿も変わる。
自分の好み>お付き合い(つまり好みを優先)
で、私はいいと思う。フォローバックなどの気遣いもいらない。にもかかわらず実際はいろいろ考えてしまうのを止められない。先日、私のフォローが外されていたのを知った。たまたま私もフォローをやめたいと思っていた。その人との関係で何かがあった心当たりはない。リムーブの際、相互なので私はためらったが、その人はどうだったのだろう。
…などと、いつまでも考えている自分は好きではない。
その後、その人の投稿を読む自分の感情が以前より冷めているのを感じて、それも不気味だった。
…「不気味という自分の感情」を見ている自分も好きではない。
SNS(Social Networking Service)ではそんなやりとりを通じて人の印象が形成される。おたがいにおたがいを形作るのを避けられない。だからソーシャル。
たとえば感想を書くこと。私というただ一人の感想だが、それを読んだ本人に影響を及ぼすかもしれない。そう考えると、心の中でわずかに何かが焦げつく感じがある。
何かをすれば→その世界に伝わり→何かが起こる。自分が世界を人の行動を変えてしまう可能性。それは避けられない。面白いとも怖いとも言える。
自分の世界としてなら、森の奥深くで咲いていればいい。
そうでなければ舞台に躍り出ていき、目立つようにやればいい。
今までにも、自分の中でおなじ問答を繰り返してきたような気がする。
年齢も景色も変わっていくのだけれど。
(2025.1.11.追記)
◯ソーシャルとは? 社会という器ではある。
でも同じ器にいるからといって社交的(sociable)である必要はないと思う。配慮はいるが積極的でなくてもいい。みんなが遊んでいる公園で一人ベンチに座っていてもいいし、にぎやかなバーの片隅で本を読んでいてもいい。みんなと一緒に帰る必要もない、気が向いたときに帰る。
泳いでいるその水槽が広いのか狭いのかは、わからない。でも、なるべく自由に泳いでいたい。
◯SNSについて。
余裕を持ってそこにいたい。気まずくなったからといってアカウントを消す必要などない。いたいのなら平静にたたずんでいればそれで良く、何かを変える必要もない。自分や人を責めて、わざわざ窮屈になっていくのは馬鹿らしい。
◯反対に、尖れば叩かれる、引っ込めば出っ張られる、空気を無視すれば自分が無視される。
心の内外で、力学みたいなものが働く。
◯あたりさわりなくやっていく、それもまた窮屈になりうる。お付き合いの感情。自分自身の平衡。
(余談)私はアカウントを分けてきた。今は、日常系/思索系/創作系/自由奔放系、に分けている。分けるのは好きだ。分けすぎて消したり統合することはあるが、人間関係でアカウントをいじったことはない。最終的に一つのアカウントでできればいいのかもしれない、シンプルで潔いから。
どれも自分が気にしているだけで、だいたいの他人は気にしていない。「あっそう」くらいのものだ。(もし仮に世間がざわつくようなら、あなたの発信はコンテンツやエンタメとして大衆によって都合よく食い物にされている可能性がある。)
世間とはそんな感じなのかもしれない。