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修正論

正義とは何か。多くの人にとって正しいと言えそうなこと、だろうか。 「理にかなっている」の理とは何か。道徳やモラルは誰が決めているのか。 文化・文明・宗教・教育の違いが、全く異なる価値観や対応を生み出している世界、個々人でもたくさんの差異のあるこの世界で、人間は何を言おうとしているのか。 それでも言わねばならないし、決めなくてはならない、行動しなくてはならない。 選んだ理由を説明しなくてはならないこともある。 世の中を見渡すと、主義主張を変更することを極端に嫌い過ぎているのではないか、という印象がある。 撤回し、反省し、謝罪し、訂正し、次へ進む。それは悪なのだろうか?  重要な立場の人ほどそれが許されずに、批判の嵐にさらされがちだ。 岩のように強く同じ主義主張を貫き、立場を維持し、実行し、責任を果たしきる…当たり前のように求められるが、実行はとてつもなく難しいと思う。 一つの発言に、その人の全歴史・全人格・全知識・全経験・全繋がり、はては未来や可能性までものせて決めつけてしまうのは酷ではないか。人をそのように決めつけたり否定する権利をいったい誰が持っているというのだろう。 たしかに約束事として、おたがいの言葉や行動を受け入れて信頼する、その前提があってこそ私たちは繋がりが保てる。 しかし同時に言葉は、刹那的で不十分で淡いものでもある。密に、まめに、やり取りしなら、変化があればそれも共有しながら、流動的にやっていけたらいいと思う。

失敗論

あらゆる場所で、「変わるべき、変えたい」という願いは常に潜在している。 しかし人は成功を求めすぎている。だから試すことにも慎重になる。 責任を誰が取るのか、損失をどうするのか、皆の意見も一致しない。 宙ぶらりんのまま、申し訳ていどの手直ししかできない、そのジレンマ。 もっとたくさんの試行錯誤がなされていい。 おそらく多くが失敗するだろう。失敗し続けるのは当然のこと。 失敗とは何か? 失敗することで開ける道、見えてくる道がある。話し合うこともできる。 修正し、失敗や損失のフォローが必要だろう。 それでもまた挑戦する。あるいは自分たちがだめでも他の誰かへバトンをつなぐ。 失敗とその責任者への罵倒が激しすぎるのだ。 批判するエネルギーを改善策に回せばいい。言い放しで何もしないのも不毛だ。失敗を殺すな。恐れず黙せず、できることを考え続けたい。

手紙と贈答

手紙を書く。 好意をのせた手紙、たとえば好きな人へ。 好きになりたい・なってほしい人へ。 あるいはお世話になった人へ。 気になっている人へ。 そのような手紙は押し付けだろうか? 一方通行のコミュニケーション。 確かに、もらった人が喜んだりありがたいと思うとは限らない。 ──返事を書くのは面倒だな。うまく書ける自信がないな。 ──返事は書かないが、悪く思われないだろうか。 ──気を遣わせてしまったな。申し訳ないな。 等々。 これは贈り物にも言えること。 言葉は読めば流れてしまうが、品物はずっしりと残る。 一方で「消えもの」もある。消費して後に残らないもの。葬儀のお返しとして選ばれる。そうは言っても、食べ物なら体内に入れるし、石鹸や洗剤なら肌に触れる。 選べるカタログギフトさえ、欲しいものがあるとは限らない。 仕方なくあらかじめ本人の要望を聞いてそれを贈る。それは贈り物だろうか? 金銭の負担をしているだけではないのか、とも感じる。 私は、贈答とは、心の「かたち」であると思う。 慣習、礼儀、儀式、伝統、作法、などと似た系列に含まれるもの。相手に必要か有益かは二の次。いただいた好意や行い、こちらの喜びや感謝やお詫び、それらの気持ちを乗せ、自分の懐の負担や手間とともに渡すもの。 ありがとうございます、よろしくお願いします、とても喜ばしいです、大変申し訳ございません…と真心と誠意で頭を下げる。謙譲の礼と心のまことを示すこと。しっかりとした態度と表明でもある。 とても厳しい。本来は。 居住まいを正し、正される、その交信こそが贈答なのではないか。 仁義と言っても良いかもしれない。「仁義」とは「仁を切る」でもある。 「いらないものを送ってきて不愉快だ」などと言える隙などない。 贈り主にも、相手の感謝や恐縮を求めるようなことがあってはならない。 いずれも甘えや傲慢に思える。 また、うわべだけの、贈っただけ受け取っただけということなら何の意味もない。 「贈る」も「送る」も、自分と相手の垣根をこえて臨んでいく行為である。 見えない壁をこえていく、これもまた「祈り」であろう。 届けたいのは品物でも言葉でもなく、まぎれもない「この思い」、一点なのだ。

楽しい漢和辞典選び(追記 25.4.25.)

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言葉に興味があるのなら漢和辞典。発想が広がり、創作につながるかもしれない。 ○なぜ漢和辞典か 国語辞典はあいうえお順。音による配列なので、散漫な印象。 一方、漢和辞典は同じ漢字を使った熟語が並ぶ。それぞれの意味が近く、類語的。数珠つなぎ、連鎖がある。知識として連関させやすい。 ○漢和辞典は二種類ある A.漢文や中国語としての解説がメイン(本来の漢和辞典) B.日本語としての解説がメイン(近年出てきた漢和辞典) 私は創作の友としての使用を想定しているので、Bの辞典をさがせば良い。 学習や、漢字本来の使われ方を押さえたい人は、Aをえらぶと良いと思う。 B. 日本語重視の辞典  * 印 :所有している(していた)辞書 ・新潮『日本語漢字辞典』* 新潮の強みを活かし、近現代の文学作品から用例を掲載。新潮文庫から抜粋しており、巻末に出典一覧。また300ページにわたって熟語索引を掲載、これは強力。サイズは他の辞書よりかなり大きなサイズで高額。 ・三省堂『新明解現代漢和辞典』 訓読みに強く、中古/中世/近世別に記載。漢語と日本語の区別が明確。日常語にも目配りがある。 ・岩波『新漢語辞典』* 字間行間広く、ゆったりした景色。見出し数や熟語数は少なめだが、使える逆熟語を多く掲載。熟語の使用例も多く、国語辞典のような丁寧な説明文が最大の特色。 A.  漢文重視の辞典 ・小学館『新選漢和辞典』* 熟語数が多い。説明が親しみやすく、同義の熟語もまめに挙げている。欄外にある見出しが充実、索引を使わずに目的の漢字を探せる。中国の昔の物品や官位名よりも、一般的な語を優先。逆熟語の記載あり。  【第七版、第八版/通常版(やや幅狭い)、ワイド版(一般的な辞書の幅)の比較】  ・掲載熟語:増減あり。八版では「一円」の項目から「貨幣の単位で百銭」の記載が外れるなど、実態に合わせて改定されている模様。ただし「銭」の項目ではどちらも記載あり。一方で、「起」の項目からは「起重機」「起爆」が削除されており、全体に内容を漢語寄りへと改めたのかもしれない。  ・レイアウト:通常版は文字は小さいがゆとりがあって品がいい印象。ワイド版は文字が大きめ、でっぷりした印象。  ・紙質:八版の新装版では軽いものに変更されたとのこと。 触ってみて、旧版はサラッとしっとり、新装版はつるりとしてパリパリで腰のある感じがした。...

読書、書く栞、ブログ

攻める栞 ここ数年読書ブログを書いている。 読みながら引用したい文や参考箇所が出てくるので、何らかのマーキングが必要になる。そこで編み出した方法「書く栞」について述べておこう。 (以前)ページに丸をつけ、気になった行の上に線を引く→記入をやめ、複数の栞を挟む→栞のかわりに細い付箋を貼る→百均のメモ用紙を断裁し、書き込める栞にした(現在)。 もとは安いメモパッドであるので、切る手間はあるが気軽に使え、終われば捨てるのみ。 百均の店によっては100枚入りのカード用紙なども売っているので、それなら断裁は不要。 メモ用紙は紙質のコシがないので、多く挟んでも本を読むときにじゃまにならない。カードは大きめ・堅めなので、書き込める情報が多いし後で使い回すのに便利。どちらも一長一短がある。 記入内容:該当ページ、内容の概略、気になったポイント、自分の考え、関連ページの記載、など。 ブログ記事を考える際、いったんすべての栞をはずし、並べたり組み合わせたり情報カード的な使い方が可能。 ページ数を書いておけば、栞を本からはずしてもそのページに再びアクセスできる。〈栞に書いた情報〉⇄〈本の情報〉、その往復で記事を作っていく。 ブログにすることの良さ 本を読んで、いったんすべてを忘れられる。 それに尽きる。忘れることで潜在意識に残ったものが、時を経て断片的にぼんやりと現れることがある。深層意識にとどまっていただけの価値があり、おそらくは自分にとって大切な情報。 そこでブログを読み返す。納得を得られたり、また違う印象を抱いたり、ブログ記事を書き直すこともある。アルバムのように個人的なアーカイブとしても機能する。必要なら再読すればいい。また、ネット上にあることで誰かの役に立てるかもしれない。 このようなトータルな読書体験を有意義に感じる。 (余談) 私の場合、読書ブログはなるべく感情をよけて書いている。情報を得るのに自分の中の感情表現はじゃまになる。しかも書かれた感情は過去の自分の感情でしかない。感動した、感心した、などはどうでも良い。そもそも本の内容を自分で取捨選択した上に自分の言葉で書いているのだから、その段階で感情的な影響を及ぼしている可能性もある。

感想『逸神』

『逸神』(二礼樹・著、小説新潮2025年2月号掲載) 不条理に運命をもてあそばれそうになりながらも己を保つ、進まざるを得ない。覚悟などは後から付け加えるものにすぎない。この物語には幸いなことに、ともに歩む者がいる。優しさがある。弱さもある。ミステリーや謎解きとは少し違ったところに作品の意味が置かれている、濃密で鮮やかな労作だと思う。 私は作家の立場も想像しながら読んだ。文筆とは、孤独で心細くなんとけわしい作業なのだろうとしみじみ思う。 〈以下、私が受けた印象や考えたことを列挙しておく〉 語彙の選択は巧みで品位があり老練さをも感じさせる。もう少し漢字遣いを柔らかくしてもいいくらい。 杏寿に深い業が眠っていることは想像に難くない。現在は兄に似ているがいつか暗部を炸裂させるような物語も読んでみたい。キャラクター性の強いペアなので愛読者からは続編やシリーズ化を望まれよう。 男女の性差の選択はこれで良いのかどうかはわからない。たとえば堕天狗は体躯が頑丈でありながら女性であること。それによって表現できるものは何だろう。 天狗は嘘をつかない、という縛りが面白い。嘘にも本当にも限界があって、そこをどう読むか(読ませるか)。 「うけたもう」決め台詞のよう、引き締まる。 「ただの記号のような言葉だ」この手の表現が好き。 「その褐色の肌のなんと美しいこと!」暗い色にも関わらず闇でも分かるのだから、大気のわずかな光の粒をすべて捉えて艶やかに反射しているのだろう。 第5節の「なぜ一度も疑わなかったのですか」の一文が浮いてしまっているように感じた。 「橙色」が心地よく目に留まる。(たまたま近作で自分も使っていた。) 「どばり」のような擬音の使い方も好き。擬音は多用しにくいが動きが出る。 終盤は天狗、私、孔雀の三つ巴になる。読む足がもつれたように思う。もっとも掲載誌による「絡まる謎を解いて」という特集なので、綱を編むための縄をあえて3本にしたのかもしれない。 孔雀は…? 最後に気持ちはふと迷子になった。私の読みが浅いせいか。 「私」の語りについて、全体を通して揺れている感じがある? 一人称語りは厄介だ。作家の視点なしに「私」から離れた他者の行動をどう描写したらいいのだろう。たとえば仮定法にするとして、語りや筋立てが弱くならないのだろうか。(過去が明かされる第4節は三人称語りとなる。)作中の、「一...

脱物語を物語る

自分の創作について、心境と現状を記録したメモです。 無垢な欲望と最終目標  私のなかに静かに燃える欲望の炎があります。これをリビドー(ユング的な意味で)と呼んでいます。まずはこのリビドーを創作の源として発露すること。次に鑑賞者に影響を与えること。更にその力が新たな形で世界へと生成されること。最後にその変容と拡散がこの世界で連綿と繰り返されること。以上が私の創作における望みであり目的です。これは絵を描いていた頃から一貫しています。「真似するな引用するな作ったのは俺だ」などというエゴは一切不要と考えます。 物語への違和感  人間存在はいわゆる物語では表現できません。全身体的な生命活動や、世界の複雑さが常に背景にあることを忘れないようにしたいと思います。「コンビニに行く」という単純な行為でさえ無数の要因の上に成り立っているのです。登場人物たちの意志や意識、行動が世界のすべてであるかのような物語の成り立ちには違和感を覚えます。 アプローチ  私の創作では伏線の回収といった読者への配慮よりも、「分からないけど面白い」体験を重視します。かと言って無闇に文脈や因果を排除するのではなく、独自の形で脱物語(新しい物語性?)のようなものを作りたいと思っています。 現状と課題  理想の表現にはまだほど遠いと自覚しています。引き続き、現実を多面的・多層的に塗りかさねてみる、あるいは世界から切り取ったさまざまな断片を再構成してみる、などの手法を試していきます。文章をより濃密にすべきか研ぎすまして整理すべきか、などの問題もあります。今のところ、あばれるリビドーと律しようとする手法のあいだで心は揺れています。 「そんなことはどうでもよくて好きに気ままにやればいい」とも思います。 「お前の作るものなど、作る姿勢など、だれもなにも気にしちゃいない」 …おそらくその通りでしょう。 …せめて誰か一人だけでも末長く見守ってもらいたい、話してほしい。そう思います。作品は鑑賞者がいて完成します。

夢見)25.1.8.

夢を見た。 ポツンと開いた本がある。昨年、推理小説の新人賞を取った作家の、受賞作。校正刷で仮製本したもの、刊行直前の最終見本誌。前半は作品ではなくて本ができるまでの経緯が書かれている。作者の意向で第1章のタイトルが3つの文でできている。長すぎると編集者らが意見し、討議でもめたというエピソードなど。本の半ばにグロスコート紙のページがあって、その見出し文が載っている。 気がつくと私はそれを線路内で立ち読みしている。銀色のローカル線が入線してくる様子と音を感じ、急いでホームによじ登った。見ると本は線路の上におき忘れている。そばにいたパートナーにそのことを告げるうちに、列車が近づく。本は鉄路の下に挟まれているが、車止めの装置の先にある。どうか手前で停止してくれ、と願う。ブレーキをかける音が響き、車両は止まりきれず本を通過、一両目が脱線した。ジュラルミンの車体は斜めにかたむき、横腹にはヒビが入っている。運転手が怒った様子で私に本のことを確認すると「軌道上放置物報告書を書いてください」と言う。 踏まれた本はクロスの表紙の上製本で、文字も柄もなく深く濃い紺か緑のような色をしている。その布の一部がほつれ傷がついていた。 夢から覚めた私は宿で親戚たちと雑魚寝をしている。見た夢を忘れないうちにメモ帳に記しておくか迷うが、眠いので布団を敷き直して寝ることにする。敷布団を整えると、隣の親戚の男が寝ぼけながら私の敷布団の上に侵入しうつ伏せになって眠る。彼は体操教師としての体躯をしている。腹が立ち追い出そうとも思ったが、さらに2枚布団が敷いてあるのでそちらで寝れば良いと思い直す。 眠りながら先ほどの夢を反芻し、また眠るをくり返した。 …以上はすべて夢で、やっと本当に目が覚めた。私は夢を反芻し離床。忘れないうちにこのブログに残した。