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楽しい漢和辞典選び

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言葉に興味があるのなら漢和辞典。発想が広がり、創作につながるかもしれない。 ○なぜ漢和辞典か 国語辞典はあいうえお順。音による配列なので、散漫な印象。 一方、漢和辞典は同じ漢字を使った熟語が並ぶ。それぞれの意味が近く、類語的。数珠つなぎ、連鎖がある。 ○漢和辞典は二種類ある A.漢文や中国語としての解説がメイン(本来の漢和辞典) B.日本語としての解説がメイン(近年出てきた漢和辞典) 私は創作の友としての使用を想定しているので、Bの辞典をさがせば良い。 学習や、漢字本来の使われ方を押さえたい人は、Aをえらぶと良いと思う。 B. 日本語重視の辞典  * 印 :所有している(していた)辞書 ・新潮『日本語漢字辞典』 新潮の強みを活かし文学からの参照例も多く、読み応えあり。サイズ大きめ、高額。 ・三省堂『新明解現代漢和辞典』 訓読みに強く、中古/中世/近世別に記載。漢語と日本語の区別が明確。日常語にも目配りがある。 ・岩波『新漢語辞典』* 字間行間広く、ゆったりした景色。見出し数や熟語数は少なめだが、使える逆熟語を多く掲載。熟語の使用例も多く、国語辞典のような丁寧な説明文が最大の特色。 A.  漢文重視の辞典 ・小学館『新選漢和辞典』* 文字は小さいが字間があるため読みやすい。説明も親しみやすく、同義の熟語もまめに挙げている。見出しが充実、欄外にある部首と画数から引くことができる。中国の昔の物品や官位名よりも、一般的な語を優先。逆熟語の記載あり。 ・大修館書店『新漢語林』* 文字は大きめだがぎっしり。コラムや難読字の列挙など学習向け。逆熟語の記載あり。 ・角川『新字源』* 正統派で、一時代を築いた。そつなく広範にわたってフォロー。25年ぶりの新版でデザイン面を刷新した。逆熟語の記載あり。 ・三省堂『漢辞海』* ゴリゴリの漢和辞典。漢文にすべて和訳をつけている。訓読みや国字に弱い。 ・三省堂『五十音引き漢和辞典 第2版』 レビューによれば類語辞典的にも使えて、見晴らしが良さそうな辞書。 ○「梅」を調べてみた(『新漢語辞典』『新選漢和辞典』『新漢語林』) ○訓読みについて 音読みより厄介。さまざまな読み方があり、なおかつ時代ごとに変化するためキリがない。何を採用するのか、編者のセンスによる部分も大きいのではないか。 ○見出し語は多い方が良い? 収録語数が多いのは、漢文...

読書、書く栞、ブログ

攻める栞 ここ数年読書ブログを書いている。 読みながら引用したい文や参考箇所が出てくるので、何らかのマーキングが必要になる。そこで編み出した方法「書く栞」について述べておこう。 (以前)ページに丸をつけ、気になった行の上に線を引く→記入をやめ、複数の栞を挟む→栞のかわりに細い付箋を貼る→百均のメモ用紙を断裁し、書き込める栞にした(現在)。 もとは安いメモパッドであるので、切る手間はあるが気軽に使え、終われば捨てるのみ。 百均の店によっては100枚入りのカード用紙なども売っているので、それなら断裁は不要。 メモ用紙は紙質のコシがないので、多く挟んでも本を読むときにじゃまにならない。カードは大きめ・堅めなので、書き込める情報が多いし後で使い回すのに便利。どちらも一長一短がある。 記入内容:該当ページ、内容の概略、気になったポイント、自分の考え、関連ページの記載、など。 ブログ記事を考えるときに、いったんすべての栞をはずして並べたり組み合わせたり情報カード的な使い方が可能。 ページ数を書いておけば、栞を本からはずしてもそのページに再びアクセスできる。栞の情報をもとに、また本へと立ち返る、行ったり来たりしながら記事を書いていく。 ブログにすることの良さ 本を読んで、いったんすべてを忘れられる。 それに尽きる。忘れることで潜在意識に残ったものが、断片的に、蜃気楼のように、再び現れてくる。それが自分にとって大切なこと。 そこでブログを読み返す。納得を得られたり、また違う印象を抱いたり、ブログ記事を書き直すこともある。アルバム写真のような個人的なアーカイブとしても機能する。そして再読したくなることも。もちろん人に感想を伝えたりお薦めできるのも良い。 このようなトータルな読書体験が面白いのだ。 (余談) 私の場合、読書ブログはなるべく感情をよけて書いている。情報を得るのに自分の感情表現はじゃまになる。書かれた感情は過去の自分の感情でしかない。そもそもが本の内容を自分でチョイスして自分の言葉で書いているのだから、それ自体がすでに一つの感情であると思う。

感想『逸神』

『逸神』(二礼樹・著、小説新潮2025年2月号掲載) 不条理に運命をもてあそばれそうになりながらも己を保つ、進まざるを得ない。覚悟などは後から付け加えるものにすぎない。この物語には幸いなことに、ともに歩む者がいる。優しさがある。弱さもある。ミステリーや謎解きとは少し違ったところに作品の意味が置かれている、濃密で鮮やかな労作だと思う。 私は作家の立場も想像しながら読んだ。文筆とは、孤独で心細くなんとけわしい作業なのだろうとしみじみ思う。 〈以下、私が受けた印象や考えたことを列挙しておく〉 語彙の選択は巧みで品位があり老練さをも感じさせる。もう少し漢字遣いを柔らかくしてもいいくらい。 杏寿に深い業が眠っていることは想像に難くない。現在は兄に似ているがいつか暗部を炸裂させるような物語も読んでみたい。キャラクター性の強いペアなので愛読者からは続編やシリーズ化を望まれよう。 男女の性差の選択はこれで良いのかどうかはわからない。たとえば堕天狗は体躯が頑丈でありながら女性であること。それによって表現できるものは何だろう。 天狗は嘘をつかない、という縛りが面白い。嘘にも本当にも限界があって、そこをどう読むか(読ませるか)。 「うけたもう」決め台詞のよう、引き締まる。 「ただの記号のような言葉だ」この手の表現が好き。 「その褐色の肌のなんと美しいこと!」暗い色にも関わらず闇でも分かるのだから、大気のわずかな光の粒をすべて捉えて艶やかに反射しているのだろう。 第5節の「なぜ一度も疑わなかったのですか」の一文が浮いてしまっているように感じた。 「橙色」が心地よく目に留まる。(たまたま近作で自分も使っていた。) 「どばり」のような擬音の使い方も好き。擬音は多用しにくいが動きが出る。 終盤は天狗、私、孔雀の三つ巴になる。読む足がもつれたように思う。もっとも掲載誌による「絡まる謎を解いて」という特集なので、綱を編むための縄をあえて3本にしたのかもしれない。 孔雀は…? 最後に気持ちはふと迷子になった。私の読みが浅いせいか。 「私」の語りについて、全体を通して揺れている感じがある? 一人称語りは厄介だ。作家の視点なしに「私」から離れた他者の行動をどう描写したらいいのだろう。たとえば仮定法にするとして、語りや筋立てが弱くならないのだろうか。(過去が明かされる第4節は三人称語りとなる。)作中の、「一...

脱物語を物語る

自分の創作について、心境と現状を記録したメモです。 無垢な欲望と最終目標  私のなかに静かに燃える欲望の炎があります。これをリビドー(ユング的な意味で)と呼んでいます。まずはこのリビドーを創作の源として発露すること。次に鑑賞者に影響を与えること。更にその力が新たな形で世界へと生成されること。最後にその変容と拡散がこの世界で連綿と繰り返されること。以上が私の創作における望みであり目的です。これは絵を描いていた頃から一貫しています。「真似するな引用するな作ったのは俺だ」などというエゴは一切不要と考えます。 物語への違和感  人間存在はいわゆる物語では表現できません。全身体的な生命活動や、世界の複雑さが常に背景にあることを忘れないようにしたいと思います。「コンビニに行く」という単純な行為でさえ無数の要因の上に成り立っているのです。意志や意識、行動が世界のすべてであるかのような物語の成り立ちには違和感を覚えます。 アプローチ  私の創作では伏線の回収といった読者への配慮よりも、「分からないけど面白い」体験を重視します。かと言って無闇に文脈や因果を排除するのではなく、独自の形で脱物語(新しい物語性)のようなものを作りたいと思っています。 現状と課題  理想の表現にはまだほど遠いと自覚しています。引き続き、現実を多面的・多層的に塗りかさねてみる、あるいは世界から切り取ったさまざまな断片を再構成してみる、などの手法を試していきます。文章をより濃密にすべきか研ぎすまして整理すべきか、などの問題もあります。今のところ、あばれるリビドーと律しようとする手法のあいだで心は揺れています。 そんなことはどうでもよくて好きに気ままにやればいいとも思います。 お前の作るものなど、作る姿勢など、だれもなにも気にしちゃいない。 …その通り。 …とは言え、せめて誰か一人だけでもいいので末長く見守ってもらいたい、話してほしい。それが本音です。

夢見)25.1.8.

夢を見た。 ポツンと開いた本がある。昨年、推理小説の新人賞を取った作家の、受賞作。校正刷で仮製本したもの、刊行直前の最終見本誌。前半は作品ではなくて本ができるまでの経緯が書かれている。作者の意向で第1章のタイトルが3つの文でできている。長すぎると編集者らが意見し、討議でもめたというエピソードなど。本の半ばにグロスコート紙のページがあって、その見出し文が載っている。 気がつくと私はそれを線路内で立ち読みしている。銀色のローカル線が入線してくる様子と音を感じ、急いでホームによじ登った。見ると本は線路の上におき忘れている。そばにいたパートナーにそのことを告げるうちに、列車が近づく。本は鉄路の下に挟まれているが、車止めの装置の先にある。どうか手前で停止してくれ、と願う。ブレーキをかける音が響き、車両は止まりきれず本を通過、一両目が脱線した。ジュラルミンの車体は斜めにかたむき、横腹にはヒビが入っている。運転手が怒った様子で私に本のことを確認すると「軌道上放置物報告書を書いてください」と言う。 踏まれた本はクロスの表紙の上製本で、文字も柄もなく深く濃い紺か緑のような色をしている。その布の一部がほつれ傷がついていた。 夢から覚めた私は宿で親戚たちと雑魚寝をしている。見た夢を忘れないうちにメモ帳に記しておくか迷うが、眠いので布団を敷き直して寝ることにする。敷布団を整えると、隣の親戚の男が寝ぼけながら私の敷布団の上に侵入しうつ伏せになって眠る。彼は体操教師としての体躯をしている。腹が立ち追い出そうとも思ったが、さらに2枚布団が敷いてあるのでそちらで寝れば良いと思い直す。 眠りながら先ほどの夢を反芻し、また眠るをくり返した。 …以上はすべて夢で、やっと本当に目が覚めた。私は夢を反芻し離床。忘れないうちにこのブログに残した。

まけてたまるか

人とのやりとり、トラブルや課題、生活や仕事など、戦いを強いられる場面はある。 相手や対象がある場合、それが自分自身の場合、あるいは、具体的な相手がないこともある。 戦うからには勝敗がある。 そもそも、 勝敗を決めるのは誰か? ジャッジする審判はいるのか? そこにルールはあるのか? 正義とか悪とか、そういう善悪の線引きをしたいのだろうか? それとも守りたいものを守るためだろうか? 戦いには競争の臭いもある。 戦いの結果、 勝者が得るもの、敗者が失うもの 勝者が失うもの、敗者が得るもの、は何だろう。 勝者と敗者が決まるのなら、それにより上下関係や力関係が生じるかもしれない。 優劣や、正義・不正義が定められてしまう可能性もある。 反対に、たまたま勝ってしまって気まずいと思う勝者もいるだろう。 それはそれとして 戦う者は、本当は、誰と・何と戦っているのだろうか。 「まけてたまるか」という表現もある。 負けないと言っている。 勝つと言っていない。 不条理さに押しこまれているが、しかしそれは押し戻してゼロにすればいい。 そのために負けないことを掲げる。 「まけてたまるか」には、「まけない」「まけたくない」より、胆力や意気を感じる。 「たまるか」に、今は 分 ぶ がわるいけれど、それを克服するような踏ん張りを感じる。 小学校の徒競走で順位をつけるのをやめた、という話を聞いたことがある。 それはそれで根本的な何かを勘違いしている、とは思う。

お盆の後日談、さらに後日

前回の続き。お盆の災難と、その後日談。 振り返ってみれば、私が遠方へ法事で留守のあいだに、年寄りがうっかりミスで転んだだけの話。 それで這いずり回って数日過ごし、部屋をすさまじい汚部屋に変えつつ、やっと救急を呼んで入院。入院は2ヶ月。前半は打ち身の治療、あと偽痛風と軽い感染症があった。後半は転院して簡単なリハビリ。汚部屋の大掃除については前回書いた通り。 入院中から、全力で今後のケアの策を講じた。ソーシャルワーカーと打ち合わせし、役所経由でケアマネージャーを紹介してもらう。その間、介護認定のための手続きを迅速に。用具屋が来て手すりなどの取り付け。今後の見守りなど、ケアプランの打ち合わせ、諸々の契約など。 すべては終わり、何事もなかったかのように、年寄りは元の穏やかな生活に戻っている。 私もこうして振り返りのブログを記している。 やるべきことはやれたと思う。 その自分の気持ちは、どんなものなのだろう。 義務、だけではない。 孝行、とはちがう。 思いやり、なのか。 優しさはそこにあるかと言うと、むしろ厳しさのほうが強い。 自分に対しても、親に対しても。 ケアマネージャーに質問された。 「お子さんとしては親御さんにどんなことを望んでいますか?」 私は、健康的に前向きに残りの人生を気ままに過ごしてほしい、と答えた。 そのために普段からハリのある生活を自覚的におくってほしい、とも。 寝たきり予備軍である以上、低きに流れるだけの自堕落な生活では身を滅ぼす。できることをできる範囲で、精を出してほしい。無理は禁物だが、フヌケも良くない。 何十年かすれば我が身でもある。 そのとき私は、どんなふうに思って老体を引きずりながら生きているのだろうか。 やっぱ無理ぃ〜 などとほざいているのだろうか。

お盆休み前後、記録

2024年8月の記録をしておく。 後半は生々しい記述があるので、お気をつけください。 冷蔵庫があやしい。冷凍庫のアイスがほんの少し、ゆるいので気がついた。真夏の買い替えは避けたい。 パソコン(Mac)の買い替え。 パソコンの移行作業。移行アシスタントは失敗、入力のユーザー辞書以外は何も引き継げなかった。OSのバージョンが違うとできないとのこと。 パソコンの引き継ぎを手動でおこなう。アプリ、メール、スケジュール、連絡先、設定。数日かかる。 最後までモリサワでつまずく。不便な仕様で毎回困る。迷惑でしかない。既得権益モデル。 地方で法要のため、バス→飛行機→地下鉄で移動した。博多に前泊。 博多→特急→ローカル線を乗り継ぎやっと目的地に到着。 法要で数年ぶりに親戚が集う。いろいろ話したり聞いたりしたかったが、いざ顔を突き合わせるとおたがい静かになってしまう。少し後悔。 幼少の頃から可愛らしく、学生時は麗しかった子、そのまま美しい大人になっていた。頑張らなくても勉強ができるタイプ。妖精か何かの化身なのか? 丸一日かけて帰宅。 帰路の途中、救急隊員や病院から連絡が入ったり、こちらから連絡したり。認知症の年寄りが動けなくなって緊急入院。一大事ではあるが、あわててもしかたない。 翌日、年寄りを見舞う。点滴をしているが、元気。一安心。 年寄りの家へ行き、入院までの残骸を片付ける。異臭、生々しいゴミや脱ぎ捨てた衣類の山に思わず目をおおいたくなった。気持ちを切り替え、片端から処分、洗濯、掃除。やるしかない。 SNSはずっと留守にしていた。ネットにつながっていなくても、テレビやメディアを見なくても、本すらなくても、それらに対して何の渇望も生じなかった。モニターや文字を見ないので、目が回復し、ぶれることなく遠くまで見えた。 それでもBlueSkyのフォロワー諸氏のことは、たまに思い浮かべていた。 年寄りの後始末は強烈。逃げてはいられない。 しかし、認知症気味とはいえ普段は身の回りのことをこなし、掃除や買い物も自分でまめにしていた。それだけに、この惨状は過酷な状況だったことを物語っている。 私は部屋を片付けながら、悲惨な状況と対話した。 ここでこんなふうにしていたのだな、動けないからおトイレ大変だったろうな、ティッシュもたくさん。この毛布にくるまっていたんだね。冷凍のシュウマイが転がっていて、...

友だちと孤独(24.10.23.追記・変更)

友だちとは何だろう。 私の場合、 最強)多くの時間をともに過ごせる、そばにいて安心する、うれしい、ありがたい。 かなり強)プライバシーや嫌なこと恥ずかしいことも共有できる、安心感と信頼。 まあまあ強)思考の面で、深く共感したり柔軟に反論し、考えを練っていける。 ありがち)感情の面で、共有できる。しゃべって、聞いてもらって満足。 ありがち)気軽に連絡を取りあえる。短信でいい。数年に一度、会う。 弱)たまに思いうかべたり気になる。会うことはほとんどない。 番外の最強)食事を「気ままに」一緒に楽しめみ味わえる人。人を気にしながら食事するのがイヤという、私の方の問題を超越して来るような人。いまだに出会えたことなし。 … 「友だちって、増えるとその分減るものなのか?」と嘆いている人を見かけた。時間や手間をかけてつながり続けるのが友だちなら、そういうこともあるだろう。 … 現在、私にもほんのわずかだけれど友のような人はいる。しかし気楽な付き合いではない。敷居が高い、気を使う、すぐ疎遠になる。友だちと呼べるのか、あやしい。 今日も私の友だちは目に見えないまま、どこかに居続ける。いや、そうだろうか? 自分では「可能性」は、ある、と思っている。 可能性を残したままなので、孤独でも気が楽だ。 結局、孤独を作っているのは、自分。 心のどこかでは孤独になりたがっていて、それで孤独。 … ハンナ・アーレントは言っている 「孤独」と「ひとりぼっち」は違うのよ、と。 「孤独」は、かけがえのない自分がある。人と楽しく話せるし、その会話で分裂した自己を、再び一人に戻すことができる。能動的な振る舞いがある。 「ひとりぼっち」は、人との付き合いができないがゆえに、疎外されている、見捨てられていると感じる。自己を見失い、自信がない、世界への信頼もない。 … たまに想像したくなる すべての血縁や家族がない、完全に一人の世界。 田舎に住んで、何にも属さず、ネットの細い線一本、近所の頼りないスーパーと内科が生命線。 あとはたった一人で自由… ふと思った 可能性って、心の平穏のための担保だな。

心 - 言葉 - 声

過去に起きたことの記憶は良しとして、そのときの負の感情までが何度もよみがえると心によくない。 客観的に出来事をふりかえり、感情は切り離す。 それができないのなら、できない理由があるので、それを探る。 できないをできるに変えるのは困難でも、理由を知ることで納得しいちど問題を手放す。 しかし、心の問題を心の中だけで処理するのは、やはり難しい。 心のトラブルは、外の空気に触れさせてやらないと解消されにくい。 心を世界に「さらけ出す」必要がある。 心には「心を手放したくない」という防衛本能のようなものがある。そのしがらみを解き放ち、無事に心が流れ出すように手助けをする、それがカウンセリングの技法だ。 もっとも、私はそれがまどろっこしい。フロイトからすでに百年たっている。 口先だけ(でもないのだろうが)の会話で、心のコリがほぐされるものだろうか。 新しい手法はないのだろうか。 自分で奥底に手をつっこんで、ベロベロっと出してやりたいくらいだ。 考えられるのは、身体性を使う方法。 叫ぶ。とともに、ころげ回る、手を振り回して怒る、めちゃくちゃに走る、狂ったように踊る。 普段、まったくやらないようなことを派手にやる。非日常的な動き。 恥ずかしければ恥ずかしいほど良い。大丈夫、誰も見てはいない。羞恥心など動きで吹き飛ばしていく。 ストレッチとかジョギングとか、そんな格好のいいものでは収まりがつかない。 あるいはヨガや太極拳なら効果があるかもしれない。それらはちゃんと変なポーズをしている。 ただ、声が足りない。(そのかわりに呼吸をコントロールしている。) 声に出す、言葉を発する、それはその言葉を「客観的に聞く」ことでもある。 自分の思いを、世界の空気を振動させて自分で聞く。世界(自然)の中をくぐり抜けたものは、客観性を引き寄せてくれる。言葉の意味・思考を浄化(客観視)できる。 人前でしゃべりながら、「何で自分はこんなことを言っているのだろう」と思うことがある。 そんなとき、自分の言葉に、意識があとから追いついて、その内容に驚いたり納得したりする。 世界が体に入りこんで、言葉を引き出しているのだ。 自分が、自分自身から少し浮上している。 自分の中の言語(感情さえも言語で操られることがある)が、よくない方の自分らしさによって腐敗することなく、世界と重なりあっている。美しいというか、自然にあり...

その味、なに色?

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すでに似た考察はあるのかも。 色と味を結びつけてみた。 色の表現には2系統あるが、わかりやすく印刷で使う色で考える。 C(シアン)、M(マゼンダ)、Y(イエロー)、K(ブラック) C=すっぱさ、M=からさ、Y=あまさ、K=しょっぱさ とする。 (注) 舌で感じるのは「すっぱさ、甘さ、しょっぱさ、苦さ、旨さ」の5種と言われる。 →「苦さ」は毒を感じ分けるためのもので、非常に敏感。ここでは外すことにした。 →「旨み」はタンパク質(アミノ酸)を示す味、本能的に必要な感覚。これも外す。 →「辛さ」は味覚ではなく、痛覚。しかし日常的で身近な感覚なので加えた。 色の濃淡で、味の濃い薄いをあらわすものとする。 4色×4段階×4味=64パターンを作ってすべてを解説するのは困難なので、具体例を挙げて説明してみる。 ① C+M:からさ+甘さ エビチリとか、アジアンテイストな甘辛ソース。混色するとパープルになる。 ② C+M:すっぱさと辛さ トムヤムクンに代表される、すっぱ辛さ。色を混ぜると、爽やかなグリーン。 ③ M+Y:甘さとすっぱさ 黄色(すっぱさ)が強ければ、青春の味。赤(甘さ)が強ければ、情熱的な恋の味に。 ④ K:塩を入れすぎて失敗! 黒(塩からさ)が強くなると、どの色も黒に負ける。塩からさは水(白)で薄めるしかない。 そのほか、赤(甘さ)に少し黒(塩)を加えれば、より強い赤(甘さ)になる。砂糖だけで甘くするのには限界があり、塩を加えることでより甘く感じるのだ。 各人で印象は異なるとは思うが、それなりに色を使った味の表現ができたと思う。味を色に変換すれば、色の混ぜ合わせによって味を表す新たな色が導き出される。 もしかしたら料理学においては味を数値化して、演算式や関数を使って結果を見つけるような手法があるのかもしれない。その点、色はひと目で理解できるので、簡単・便利であると思う。

ねぎらい・表現・露出(自分、自分、自分!)

今朝、SNSで書ききれなかった長文や思いを書いておく。 このブログはそのための場所なのであった。 ◯ねぎらいのことば、ねぎらう気持ち 心に苦しみを抱いている人へ、絆創膏やキズ薬のようにねぎらいの言葉をとどければ、その人はきっと喜ぶだろう。SNS上のコミュニケーション。しかし治るのは自分の中の治癒力があってこそ。そうでなければ、絆創膏は対処療法でしかない。もし対処療法なら、ずっと先まで何度でもお付き合いしてあげるのが筋ではないだろうか。 私はやさしい言葉は届けない。でも「どうすればその人が本当に回復するんだろう、私に何かできること、届けるべき思いはないのか」と真剣に考える。たいていは遠くから見守ることしかできない。そんな事情はいちいち説明しないので、おそらく私はただの「つまらない人」と思われて(それすらも思われないで)終わる。 たまにそれが寂しいと感じる。 心配する気持ちも、心配している事実も、それで寂しくなるのも、すべて私の身勝手。どうするでもなく、ただうっすらと諦観のようなものが広がっていく。 私はカウンセラーにはなれなかった。 ◯表現されなかったものたち この世には「おれは小説を書きたい、書きたいが書けないとわかっているので書かない、でもいつか書きたい」と言いながら書かずに亡くなってしまった人は多い。バートルビー症候群というくくりで書籍になっている。 自分の中の欲望に、表現という体を与えたいのだと思う。 おなじように、誰かの「発せられないまま膝を抱いている言葉」というものがある。自分のことならともかく、他者の「言われなかった言葉」には、なかなか気づけない。映画やドラマでは気づいている人がいる。その気づきとて、ストーリー上は正しい気づきとして扱われるが、現実問題としてそんな都合の良い正解などは自他ともにあり得ない。 そこまで考えてしまうと、先ほどの「やさしい言葉がかけられない」という私の態度になってしまう。 真のカウンセラーなんているのだろうか。 ◯詩を書く衝動 私は詩を使って自分の奥底の恥ずかしい欲望や汚らしさや暴力を、世界に向けて露出しようとしている。けれど、言葉は散らかるばかりで輪郭が見えてこない。そのように詩を利用して、詩に対して申し訳ない。 ただ、突破したいという衝動だけがある。 何を?突破? 良い子の自分、悪い子の自分、プラスマイナス零の、何でもない自...

その知識どうする(追記 2024.7.25.)

読書やテレビ、ネット、会話、勉強会などでさまざまな知識を得る。それをメモにとる。 人によっては、芸術、旅行、エンタテイメント、物品など、情報やモノを残しておきたいと思うこともあるだろう。 ◯皆さんはこの欲求いかに解決しているのか。  それをどうやって残しているのか。 専用のノートに書いたり貼ったり。 箱にまとめておく。 写真、音声、動画にする。 ブログやSNSにアップする。 日記に書く。 絵や音楽や創作に変換する。 記録はしない。記憶のみ。 ◯なぜ、情報をためこみたいのか? ・「あれなんだっけ」昔読んだ本をまた読みたくなる気分と同じ。 ・「それはこういうこと?」会話や議論の中で必要な知識として。 ・「あれとそれで、こうなるかも」思考や思索のもとになるもの。 ・「こんなものできました」創作への動機、応用、ネタとなる。 ◯外山滋比古・著『思考の整理学』。 アイデアや情報をどうまとめ、活用するか、よもやま話から実践まで書かれている。1983年発刊だが、いまだに読み継がれているロングセラー。 アイデアは寝かせろ。人に話せば満足して考えが深まらない。 思いついたらすぐ書きとめろ。手帳を持ち歩き、トイレや枕元にもメモ用紙を置け。 いったん寝かせて、後で見返す。まだ興味深ければノートに書き写す。 ノートには、通し番号、タイトル、日付を記載し、箇条書きで。 著作や講演に使用した箇所には線を引く。それで「情報は一生を終える」。 さらにノートを見返し、もっと広がりそうなものは「メタ・ノート」に転記。 メタ・ノートはやたら見返してはいけない。じっくり熟成させる。 以上、参考までに。 ◯私はもう何年も仕方が定まらず、ずっと試行錯誤してきた。 試したもの【紙】 紙片、ノート(A5〜B4、リング、帳面、厚い・薄い)、クロッキーブック、メモ帳、ルーズリーフ、システム手帳、情報カード。 試したもの【デジタル】 アプリ(テキスト、HTML、Acrobat、Apple系、マイクロソフト系) サービス(グーグル系、Wikimedia、Scrapbox、マークダウン系、memolane、SaasBoard)。他にもたくさん。 ◯入力と出力。 入力したものは、出力させてその役割を終える。出力による快感、享楽というものがある。(一方で、森の奥にひっそりと咲き、誰にも見つけられないまま、実をつけ、熟成し地に落ち...

他人の他人さんへ

ちょっと狭いことを書きます。私の気持ちの整理です。 SNSで投稿を読んで、まれにイライラしたりへこんだりする。そういう感情が起こるのはなぜか?  そのひとつに、他者(特に家族や親戚)への憎悪をぶちまける激しいトゲトゲの言葉がある。暴言でも、あっさりさっぱりしていたりユーモアがあれば、動揺せずに読める。しかし生々しく手きびしい批判には、気分を害される。痛いし、反論したくなる。SNSの場合、やむをえずモデレーションしている。 まず言えるのは、情報が足りていない。 私は、ネット上のその人の言葉しか知らない(実際にお会いしたことがなければ)。 言葉はよくその人を表す。でもその人(Aさん)のことを私はよく知っているわけではない。ましてAさんが嫌っている人(Bさん)については、さらに情報がなく、Aさんの言葉を通じてしか理解が及んでいない。AさんとBさんの具体的なやりとりについても同様だ。 その段階で、 まったく見知らぬ人であるBさんのことを、無関係な私は断罪できない。 むしろ、「本当にそうなのか、Bさんの立場から見たAさんはどうなのか」「実際のやりとりはどうだったのか」を想像したくなるし、想像することでAさんに非難の目を向けたくなることさえある。 しかしそれもまた、 無関係で情報不足の私であるので、行きすぎた発想と言える。 同情と、親近感についてはどうか。 Aさんのその他の発言がすごく好きだとか、実際にAさんと会って楽しく過ごした経験があるとか。あるいはAさんの話に似た経験をしている、共感が強いなど。それによってAさんを支持したくなるかもしれない。信頼度、親近感、好感やひいきの感情。「Aさんが正しい、Bさんは良くない」と。 しかし Bさんに関する直接の情報はあいかわらず欠如したままだ。 バイアスにすぎない。 こういう考えもあるだろう、「Bなんて人は知らないけど、Aさんに同情する、ただそれだけ」。見知らぬBさんには無感情。考えたってわからない。とにかく、そこにあるAさんの心を大事にしておく。 Bさんのいる側の世界は無視され、放置される。 「そもそも何で私がBさんのことを?」である。話を聞いて「なにそれムカツクー」でおしまい。それでいいのかもしれない。 私は「実際のBさんの気持ちはどうなのだろう」と想像をめぐらさずにはいられない。 「そんなの決まりきってるじゃん」という前提...

努力?

私は会社員のころ、かなり痛めつけられた。それおかしいだろ?と思うことが多かった。 メンター(社会的な相談相手)に、仕事上で起こる理不尽や不条理について相談した。 「わかるけど、そりゃしょうがないんだ、そこは反抗じゃなく、さらに上を行くしかねぇよな。絶対文句言わせねぇぞっていう、そこは勝負よ」 実際彼はその通りの人だった。しかしそう話しながらも、一抹の切なさもある表情だった。そういうところが私は好きだった。 彼は小さな新聞社を切り盛りしていた。うかうかしていては情報を取り損なう、毎日がアンテナ全開の勝負。よく飲み、食べ、話し、とにかく歩く。べらんめえな江戸っ子で、気概がある。弱さもある。飲みながら「まいっちゃうよなぁ〜」とこぼすこともある。家に帰れば家族やペットの世話や家事もする。私が引っ越してから疎遠になってしまった。変わらずお元気でありますように。 私はフリーランスになった。波に乗るのに一年かかった。結果から言えばコネが大きかった。コネは社会的な信用度でもある。それを得るための会社勤めだったと、振り返って思う。学校を出てすぐに、また中には在学中から社会で活躍している人を見ると眩しい。しかしそういう人は目立つから目にしがちなだけ。そうでない人がほとんどだろう。 不安から必死になった。性格的にのんびりしているので、きっとのんびりした必死だったとは思う。仕事が順調になり、スキルも上がってくる。チャンスだったのだ。自由にやらせてもらった。恵まれていた。周りの人たちに育てられた。 仕事を早くリターンしてあげると、相手がびっくりする。私はそれがうれしかった。裏を返せば、そんなふうに喜んでくれる相手に恵まれていた、とも言える。 努力はできる時が限られてると思う。「努力するチャンス」がある、変な言い方だけど。その時にしかできない努力。できる努力は変わっていく。そうじゃない努力をすると、きっとボロボロになる。それは努力ではなくて我慢や徒労だろう。 我慢と努力は違う。はっきりと分けるべきだ、感情的にも内容的にも。 こう書くといかにも堂々としてる。 でも正直に言えば、私は努力は嫌いだ。たとえ納得したことでも、できればせずにすませたい。先述のメンター氏に言ったらぶっ飛ばされるだろう。 おそらく私の場合、努力しないですむ努力をやっているのだと思う。 あるいは無意識に小さな小さな努力を、ちょ...

雑談バランス

バランスが大事。 感情も生活も持ち物も栄養も、バランスよくありたい。 夢と現実も半々がいい。 笑顔もその他も半々くらいがいい。いつも笑ってたら、おかしい。 バランスを探しているが、とれた上手なバランスはすぐまたアンバランスになる。人も環境も季節も細胞も変わるからだ。私のバランスも、あなたのバランスではないし。 そもそも自分の体からして左右対称ではない。顔も手も足もちがう、背骨の形だってゆがむ。胃には右下で寝るのが楽だし、心臓は左下で寝たがる。 心臓が左にあるためだろうか、人間は左に回るのが自然だと言う。運動場のトラックでも野球でも、みんな左回りだ。 山手線は内回りが気分が良く、外回りだとどんよりしてしまうのかも知れない。 「まわれー右!」は不自然で規律的。自動車の右折は難しい。 地球はどっち回り?北極から見れば左回り。南半球の人は大変そう。 …バランスの話が、回転の話になってしまった。 バランスをとるのは難しい。

日記記4

◯ シェイクスピア『ヘンリー六世』読み始めた。中世のイギリスとフランスの戦いや内紛を描く。冒頭から、イギリスの高官同士がものすごく罵り合っている。フランス側にはジャンヌ・ダルクが降臨。シェイクスピアのジャンヌ像も興味深い。そのあと早々に処刑されていたが。 多和田葉子氏が、ドイツ語は日本語よりはるかに多くの罵詈雑言句があるし、人々も日常的にたくさん使ってる、と書いていた。英語だがシェイクスピアにもそれはある。個人主義なので自衛と攻撃のための言語もたくましいということか。 また、『リチャード三世』は、王になるためにあからさまな謀略で邪魔者を 殺 あや めまくる。女もガンガン口説いて手に入れる。もちろん出世のためで恋情などは微塵もない。野望のために一直線。最後は、それまで手を下した人々が亡霊となって現れて、いちいち「絶望して死ね!」と言い捨てていく。そのとおりに最期の奮闘もかなわず討ち死にした。 シェイクスピアの歴史劇は容赦なくて刺激的だ。しかし、もし本当にこのような世界だったとしたら恐ろしい。 ◯ 運動不足と飲食、焼肉食べ放題も効いてあっという間に3キロ太った。焼き肉は、LINEスタンプの収入が少しづつ貯まって一万近くになったのでそれを使った。なんとなく小遣いとして使うよりも、記憶に残る使い方をしたほうが良い。 炭水化物が好きではあるが、1食を野菜だけにしてみたくて、実行。キャベツの千切り。ドレッシングやマヨネーズで。今なら春キャベツが良い。レタスやキュウリ、トマトもおいしい季節になってきた。野菜は裏切らない。1キロ痩せた。 ◯ プラレール博で池袋のサンシャインに行く。駅前からサンシャインまで、直線ではないのでいつもイライラする。今まで最短距離で歩けたことはないと思う。更に、すぐそこがなかなか着かない。高層ビルによる錯覚だ。地図と実際の印象が違いすぎる。渋谷も新宿も似たようなものだけど。 サンシャインビルにたどりついたものの、入り口までが果てしなく遠い。長蛇の列を何度も折り返す、あの並び方だ。受付がすんで入った会場内も人人人。どの子供たちも複雑な表情で、ここは楽しいのか?という顔ばかりだ。大きな展示を見てすごいねーとなっただけで、全体的にスカスカした印象。リピートはないと思う。 連れていった子に感想を聞いた。「どうだった?」「面白かったよ!」「どのへんが?」「う...

傷つきやすさ頑張れなさを考える

( 以前からずっと考え続けているが、いちど整理するために書いておく) 傷つきやすい・頑張れない人々に関しての考察 何某かの手帳を持つほどではないけれど、自身の体質的精神的な要因で通常の社会的な生活が困難な人々、について。 「多様性の時代」「みんな一緒でバラバラがいい」「SDGs」「思いやりと気遣い」などと声高に言われている。差別をなくす、多様性を重んじる、それは正しいことに思えるし、今現在必要な姿勢だろう。しかし根本的な解決は、そこにはないのではないか。どれも臭い物に蓋をする、対処療法を全員に強いているだけのようにも思える。 取って返せば「バラバラにしないでみんな同じになってしまえばいい、全体主義でいい」「資本主義をやめて、何か新しい共産主義を作ればいい」そんな皮肉も思い浮かぶ。 弱い人々をいかに救うかは、もちろん大切なこと。もう一つ大事なことは、そういう人々を増やさないことだと思う。 人間は、初めは弱くだらしなく何もできない生き物だ。同時に、向上・成長する素地を備えている。問題は、その可能性を十分に生かし能力を育むことなしに、子どもたちを社会に送り出してきてしまったことではないか。人間の底力を見誤って、自由を尊重するあまり、肝心なものを捨て去っているのではないか。「その人らしさを大切に」という名目のもと、発揮可能な能力を萌芽の段階でつみとってしまっているのではないか。あるいは 生きるための強さを磨くことに関して、時代と環境に即した方法を積み上げずに来てしまったのではないか。 私も大人の世代としての責任を感じる。 本来の人間力みたいなもの。堂々としていながらも敬いがあり、傷つけても傷つけられても「ごめんなさい気をつけます」「大丈夫です気にしないで」、そう素直に言い合える優しさ。自ら傷を癒せる柔軟さ・たくましさ、復活する力。それがあってこそ、バラバラな個々を認めることができるようになるのではないだろうか。 神経質で異様に細かい社会よりも、ゆったりとおおらかで幅のある社会。傷を負い、負わせる経験をしたらちゃんと内省して、思いやる心を育てられる世界。ヒステリックに避けたり取り除くのではなくて、余裕を持って向き合えるような。 なぜか今、「心の傷をいやす自己治癒力」の方については誰も声を上げないでいるように見える。安直に「気にするな」と言うと「気にしないでいられるか!」と猛反...

外国の人の投稿

ふと目にとまった人の投稿、翻訳したらまるで詩のようになった。 その人の投稿をいくつか翻訳したので、ここに置く。その人と翻訳機による共作。 「あなたは尺八を演奏し、私は三味線を演奏し、私たちはバラのように仲良くなりました。」 「私はあなたの前にカボチャの種を積んだトラックを並べました。あなたはカシューナッツのボウルを選びました。」 「誰かに命令することを考えると緊張します。 執事を雇ってやってもらうのではなく、自分でできるなら。 そう思うから従者は雇わない。 キッチンに行って水を一杯飲んでも構いません。」 「液体のお茶を変えても、生活に変化はありませんでした。」 「人が嫌がる家事も、私にとっては楽しいようです。 皿洗い、ベッドリネンの交換。 アイロンをかけるのも楽しいです。 しかし、私は美しい女性と一緒に人生の道を歩み始めたいだけです。」 「畏敬の念を持ってあなたの話を聞いています 待ち伏せして待ってます ピクルス作って全部食べるよ 奨学金は払いません、そしてあなたをケーキにします。」 「水を頭まで注ぎます ああ、あなたをとても愛しています。」

日記記3

◯ お花見 いちど変な形でことわって、一日の冷却期間を経て、結局行くことに。 お弁当を作ると言うので聞いたら3時間かかると答えた。その3時間がもったいない。ビックリしてその勢いで私が1時間で作った。 サンドイッチ4種と、おにぎり、青菜とベーコンの炒め。唐揚げとウインナーは買ってきたもの。ポテトサラダはこんなもんだろうという感じで、勘で作ってみた。全体にパンチなく、お上品な薄味。そうだった、お弁当はしっかり濃いめの味付けが必要なのだった。冷めるとなぜか味が後退してしまう。 ◯ 桜、若葉、若草 春。萌え出づる季節。大地が、木々が、活発に活動を始める。そのためにはエネルギーが必要で、どんどん吸収したり、蓄積したものを一気に使う。 そんな場所へ、花見と称してシートなどを広げて呑気に飲み食いをする。しかし呑気ではすまされない。うずまく自然の力で、わたしたちのエネルギーもかなり吸い取られているはずだ。その結果、酔いはいつもより早く回り、胃もたれしたり、食欲が失せたり、なんだか元気なく全身がぐったりしてしまう。そのことに気がついたのはずいぶん前だ。楽しいはずの遠足やピクニック、宴会が、なぜかしんどい。見上げればそこには美しい桜。この桜が… 「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」西行が晩年に詠んだ和歌。 これに触発された掌編に、『桜の樹の下には』梶井基次郎、『桜の森の満開の下』坂口安吾、がある。どちらもヒタヒタとした怖さをふくんでいる。花見で何だかおかしいなと思いはじめてから読んだので、しみじみと腑に落ちた。 むろん先日のお花見もぐったりしてしまい、後半はただ座って休んでいた。 ◯ 辞書 辞書熱が上がってきた。小学校の卒業でもらった漢和辞典。私の辞書ブーム第一期。角川の類語辞典(編集・デザインがユニーク)、『字訓』(白川静)等々、何度かマイブームがあった。広辞苑、岩波国語辞典、フランス語・ドイツ語の辞書、季語辞典、さまざまな辞書を所有していた。今はもうない。 手元にのこっているのは、旺文社の国語辞典。かつて仕事で使うためにあれこれ見比べて買ったもの。丁寧な説明、漢字の書き順、用例、書状の書き方などの巻末付録。 先日、あらためて書店で何冊かの辞書を引き比べてみた。比べることで辞書のキャラが立つ。 言葉がどんどん色づいてきて楽しい。 どんな本でもそうなのだが、知識の結晶が...

日記記2

◯ 腰メモ 肉体の酷使より、花粉症によるクシャミ・咳・鼻による腹・腰への過負荷が原因かも。かなりの衝撃が腰へ行く。 今回の腰痛は長期化、発症から二週間近く。まだ完治しない。整骨院で8回施術、骨盤矯正(トンカチ使用)も。やっと痛点が左の骨盤あたりに絞られてきたため、昨日はそこを集中的にグイグイ押していただく。情けないのは、少し良くなると途端に姿勢をくずしてしまうこと。無意識に。気づいては姿勢を正す、を繰り返す。 腰痛で起き上がりに苦労しながら、かつての親の一件を思い出す。ほかに、昔別の整骨院で私がほざいた一言とか、このまま寝たきりになったらという悲観とか。いずれにしても晩年の澁澤龍彦のように病を楽しむ余裕はない。 体が痛いという事実。すべては腰になる。 ◯ フォーミュラE東京 史上初、東京の公道を使ったグランプリレースをテレビで見た。ほぼ団子状態で走行。音は未来的だがエグゾーストノートの高揚感がない。シャーシは皆似たり寄ったりでおかしな三角形をしている。 アクティベーションゾーンを通過することで数分間最大出力の上限が上昇する「アタックモード」をスイッチ操作で使用できる。あとは充電がどれだけ持つかが勝敗の鍵、とのこと。…変な感じ。とにかく密集しながら時速200kmで走るのでドライバーが大変そう。接触事故が何回かあった。会場はビッグサイト周辺。特に東京らしくもなく殺風景だった。 ◯ 近未来の体験 リニアモーターカーに試乗する機会に恵まれた。カーとはいえ鉄道である。鉄道とはいえ、鉄路はなく、浮遊して走行するモノレールとでも言おうか。時速150km以上で10cm浮上した走行状態に移行する。浮上時はそうでもないが接地するときは着地の体感があった。 リニアとは直線状の意。磁石を直線状に配し、NS極の切り替えによる反発で走らせる。その際、液体ヘリウムで絶対零度に程近い-269℃まで冷やして超伝導磁石を作動させる。 最高速度は500km。新幹線やレーシングカーをはるかに凌ぐ。飛行機並みである。なお、加速感はさほどでもない。鉄路のような音(ガタンゴトン)はしないものの、モーター音?風切り音?がけっこうあった。意外に揺れもあった。 奇しくもリニア開業延期のニュースが飛びこんできた。工事は中断、静岡県が建設に反対している。 ◯ ひそひそ荘 共同執筆ブログのひそひそ荘が順調な滑り出し。この順...

ひそひそ荘のながめ

 共同執筆ブログ「ひそひそ荘」の記事から紹介する。 ◯  「ないしょ 」 (投稿者:雪原さん/ @dawning0.bsky.social ) ひそひそ荘というブログ名からの連想で「内緒話」のイメージや語源の話。 「「内緒」は自分の内側にあって、「秘密」は自分の外側にあると言えそうだ。」 一つの言葉を、自分という殻の内側・外側に配することでその意味を探っていくのは面白いと思う。言葉の意味は時と場合で変わる。言葉が置かれた場所を図に描くことができたら、新たな発見があるかもしれない。それをつなぎ合わせれば 言葉の地図が書けるかも しれない。 後半は質疑応答形式で自分のことを語っている。 質問を立てることで、自分を表現することが整理される。読み手もそれぞれの問いに自分を出力するだろうし、書き手と読み手の差異も具体的に浮かびあがってくる。意外だったり共感したりできる。 雪原さんの次の記事は「布団を敷く」。ひそひそ荘に入居したので、家具や寝具を配置していこうという趣旨らしい。洒落ている。 ◯ 「こんにちは」 (投稿者:ハザマさん/ @hazama.bsky.social ) 「こんにちは」というもっとも普通の挨拶と、接客業の経験を結びつけている。 ほとんどのお客は「すみません」でやってくる。まれにいる「こんにちは」に対して店員はどう返すのか。お店や立地によっても異なるだろう。ハザマさんはどう返事しているのか、どうしてみたいのか、が記事に書かれている。 挨拶は気恥ずかしい。だから向き合ってちゃんと挨拶するときは笑顔になりやすい。両手で包みこむような挨拶もある。反対に、投げるような挨拶もある。適当に放り投げるから受け取ってくれ、みたいな。笑ってはいけない挨拶の場面もある。声の大きさも変わる。 ただこれだけは言えると思う、挨拶はしないよりした方が、きっといい。 「挨拶は、準備でもあるよね。」 そうなんだね。相撲の仕切りというか、とにかく「こんにちは」から始まる何かがある。会話じゃなくても、挨拶のあとの余韻の中で、考えたり思ったりすることもある。 あとに続くから「こんにち は …」、一つの区切りとしてなら「こんにち わ 。」だろうか。いずれにしても、 「遠ざけるのも近づくのも自分だな。」 この一文を読んでハッとした。名言だと思う。 ◯ 「はじめまして」 (投稿者:も...

質問へのこたえ 出題/雪原氏(追記 24.3.22)

質問リスト(出題は雪原氏)に答えてみる。  ◯ こだわっていること 表現の仕方(話し言葉、書き言葉、創作)。日々のルーチン(突発的な用事は苦手)。 ◯ 思い出せる限りで一番古い記憶 車輪付きの丸い歩行器?の中に入っていた。 ◯ その日着る服を決める基準 洗濯のローテーションによる。もちろん天気も。 ◯ 普段から「これは気をつけよう」と思っていること 言葉遣いと態度(特に表情と話し方、声のトーン)。しかし実践は難しい。 ◯ 夢の中での視点と主人公 一人称視点。ごくまれに三人称、あるいはドラマ仕立て。 ◯ ひとの見分け方、覚え方 顔、名前、容姿、服、仕草、話し方、歩き方とか姿勢も。全体の雰囲気。 ◯ 寝る時の服装とその理由 パジャマ。幼い頃からなので。ジャージだった時期もあったかもしれない。 ◯ 他者からは理解を得られないと思われる好きなもの 言語や哲学的なものへの嗜好。 ◯ 本棚の並べ方 そのとき関心のあるものを前面に出して並べる。(この記事の下に追記あり) ◯ プレイリストの作り方(曲順) Youtubeなどのレコメンドに任せる。いい曲に出会ったら、そのアルバムやアーチストを何曲か聞いてみる。一時的にブックマークすることもある。あとは名前を記憶していればまた聞くが、基本的に一期一会。手元にある楽曲ファイルは昔に買ったもので、普段はほとんど聞かない。ネットのサービスではSoundcloudが好き。 ◯ どうしても気になってしまうこと ・自分の創作の意味と内容と態度。それを、そのように、それだけの時間を使う意味はあるのか。どのような意味か。 ◯ 自分の体で好きな部分 昔は耳たぶと指。今は胃と肺かな。 ◯ しゃっくりの回数の平均値 無限回数出る。一日続くこともある。限界まで息を止めることで、しゃっくりを強引に止める。 ◯ くしゃみの回数の平均値 一回。花粉がひどい場合は二回連続。 【ピックアップ】 「本棚の本の並べ方」 本棚は奥行きがあり、手前と奥の2列構成にしている。関心のある本は手にする機会が増えるため、必然的に本棚の手前に並べておくことになる。基本的な場所が決まっているので、差し替えするのは数冊程度。 私の本棚は1本。200冊弱だろうか。漫画や図録が2割、文学・小説が3割、思想や自然科学が5割。「秘伝のタレ方式」で、本を買った分、他を処分する。その...

省略趣味(追記 24.3.19)

 文脈を消したいという衝動があって、たとえばBlueskyでの私の投稿、 例1:「すごく重要なトピックだったが、途中三回ぐらい意識が飛びかけた。」 「が、」のせいで文脈になってしまっている。 →「すごく重要なトピックだった。途中三回ぐらい意識が飛びかけた。」 表現が平板になるが、 どこかしら可笑しみの味 が出てくる。 例2:「メールを書いていたら1時間がすぎた。」の、「たら」を削除してみる。 →「メールを書いた。1時間がすぎた。」分割されて、コマ漫画のようになる。 例3:「一袋で3種そろうのはめずらしい」 →「一袋で3種そろった。めずらしい。」さらに「めずらしい」という 追っかけの私的感想 も削除する。 →「一袋で3種そろった。」情緒や感情を、完全に 読む人にまかせてしまう形 。 私の感情を乗せれば共感や不興を得やすくなる。一方、それを排除すれば、ドライな投稿になる。 逆に感情を乗せた例も書いておこう。 →「なんと、一袋で3種そろった! 初めて! やったー!」 これに写真が添えられていたら、思わずいいねを押したくなるのではないか。 ・・・ このあと、本来ならば私の感想や考えなどを添え、読者の共感を呼びこむような形でこの記事は完成するはずだ。普通のブログならそうなのだけれど、今回は私見なし、読む人にゆだねてみる。 (以下、追記)似たような表現があれば追記していく。 「ためになる」:何のためになるかは省略されている。読み手に放下している、責任の無さがいい。 「こんにちは」:「は」なので、それに続く言葉が省略されている。自分か相手が、その挨拶を引き継いで話すことがゆるやかに要請されている。

日記記1

・確定申告をやっている。ネットで書類作成ができるようになってからは、かなり楽に。添付書類も減ったが、マイナンバーカードの写しを添付するのは面倒。とは言えオンライン申告も初めは手間がかかるので、プリントして最寄りの役所へ持参する。コロナが5類になったので郵送しなくてすむ。→ 入り口に大きな張り紙「ここでは受け付けていません」。翌日郵送した。 ・鶏肉のカタマリをばらす。筋肉にそって包丁を入れるとうまく行く、のだが今回は皮がはがれなくて苦戦。皮は日本酒につけこんでからペーパーで拭き、カリカリに焼く。先に焼きはじめてしまったのであとから酒を投入、フタをして酒蒸し。作っていて食欲がなくなったので家の人にあげた。 ・Blueskyのフォロイーのブログを読み、連絡フォームで感想を送ろうとしたが送れず。同じテンプレートで仮のサイトを作って検証、連絡フォームは問題なく機能した。検証結果報告と代わりの方法を文章共有サイトにアップ、noteを経由して連絡。(のちのやり取りを想定して文章共有サイトを使ったが、やり取りはしなかった)「代わりの方法を参考に連絡フォームを設置しなおした」とのこと。お疲れ様でした。 ・上記の事情で仮のブログを作ったので、何となく手を加えて新しいブログに仕立ててみる。テンプレートの気に入らない部分をHTMLで編集しているが、デザインが崩れていくばかり。まだ未完成。それが気になり変なストレス。 新しいブログは、他の人たちと一緒にやりたい。100〜300字ほどで簡単に書くブログ。 みんなで作る「アパート」。デザインもそういう感じに。さて、アパートの入居者を探さなくては。→ 「ひそひそ荘」 を開設。

質問リストとこたえ(追記 24.3.13)

誰しも質問に答えたい欲求があるのだろう。 また、質問をしてみたい欲求もあると思う。 そこで質問を考えてみた。 口癖 しぐさの癖 3日前の夕食 自分の脳の重さ 忘れられない一言 記憶に残っている夢 散歩について思うこと 風呂で最初に洗う部位 つい忘れてしまうもの つい注目してしまうもの 想像や妄想していること 把握しているホクロの場所 待ったり乗ったりしている間のすごし方 話す・聞く・書く・読む、について思うこと なるべく無機質に無意識的に質問を考えてみた。 この面倒な質問に答えてくれた人がいたらうれしい。一問だけでもいい。 できれば一言で答えるのではなく、長々と語ってもらえたらなおうれしい。 私の回答は後日ここに追記します。 (24.3.13.追記) 回答を簡単に。 口癖:やれやれ、めっちゃ、はや、了解です しぐさの癖:顔をさわる、腕組み、肘をつく、足をゆする(今もゆすってる) 3日前の夕食:家で簡易すき焼き 自分の脳の重さ:物を持ったときの感触から推測して、1キロ弱くらい?(検索はしてない) 忘れられない一言:「〇〇のせいだー」ころがりながら、〇〇は私の名前 記憶に残っている夢:いつも夢で行く場所がいくつかある 散歩について思うこと:街は自分の脳だという話を聞いた 里山でも山でも川でもそうだろうと思う 風呂で最初に洗う部位:手から顔 つい忘れてしまうもの:人から言われたこと全般 だからメモなどに残す つい注目してしまうもの:空、道端の雑草、人の背中 想像や妄想していること:万一大量のお金を所有する羽目になった場合の身の振り方 把握しているホクロの場所:左手の甲 待ったり乗ったりしている間のすごし方:景色を見る 人も少し見る 見ながら考え事をする 話す・聞く・書く・読む、について思うこと:何歳になってもこれを不自由なくやりたい 【ピックアップ】 「つい注目してしまうもの」 空、「絵空ごと」という、その日の空の様子をつぶやくだけの部屋をネット上に開設している。雲の写真もたまに撮る。造形と色。月も好き。今日はまたいい雲がパラパラと浮かんでいて美しい。 雑草、歩道や民家の壁の下などにちろちろ生えているのを見るのが好き。街路樹の根もとの四角い土のスペース、あれも好き。植物園や植物だらけの野山もわるくはないが、人工物の隙間をぬって萌えでる雑草の、面白い形や小さな花が咲いている...

宣言メモとループ

世の中には「わざわざ言わなくていいのに」と感じる発言は多い。 宣言は人に向かってするもので、人に知らしめるのが目的。 そうではなくて自分のために、自分に向かってする宣言。 それを人に言う必要はないが、公言し自覚を補強する。 宣言のメモ。 「このブログはSNS(Bluesky)のただの裏書き」(そもそも 初めに書いていた ) つまり最近は、 このブログ始める→意味や意義にこだわり、洗練させたくなる→疲れて停滞する。 それを改めて、 疲れるのをやめる、停滞をなくす→特に洗練させない→このブログを続けていく。 ・・・・・ ここまで書きながら、この記事の意味を見失って笑ってしまった。 人様に向かって「実はおれ、生きてます」と告白してるみたいな。 という文章でさえ二重になっていて恥ずかしい、という文章もまた… ・・・・・ 言い訳ながら、人はおそらくループする生き物なのだと思う。 繰り返し繰り返し、何度も気づきなおしてスタートにもどる。 もどったのはスタート地点だけど、少し景色がちがっている。 一周した分だけちょっとちがっている、自分も人も環境も。 この記事もそう。ほんの小さなループだけれど。 ・

投稿の裏書き

Bluesky(SNS)の私の投稿に連動して、補足のような何かを書いてみる。 ◯朝からカップ麺 おもに休日にやる儀式。食欲というより意識にもとづいている。カロリーとの対話。 ◯お雑煮 何を入れるか。三つ葉(ほうれん草でもよし)、椎茸、人参、大根。→実家のレシピ、争うつもりはない。たいてい三つ葉が傷んできて「さて何を作るか」という途上で発生する。 ◯リンパ腺が痛い、肋間が痛い あまりないこと。まわりで感染症が流行っていたので、体内で戦っていたのかもしれない。 ◯菜の花の炒め ベーコンを混ぜて油でさっと炒め塩を少量ふる。醤油をかけても美味しい。春ならばこそ。 ベーコンは焼くイメージだが、湯がけばあっさりとしてハムに近くなる印象。使えそうだ。 ◯たまった日記を書く 5年日記。1ページに5年分が書ける。過去のその日の自分がわかる仕組み。タイムライン風。 去年の日記に、今年の自分がレスをつけたりもする。 ◯『ある崖上の感情』梶井基次郎 『 檸檬 れもん 』だけじゃない。多くの良い短編がある。これは酒場で知り合った青年二人の他愛ない話…だったはずが、覗きの快楽という奇妙な展開を見せる。 ◯フォローを外す 不意に、いったんすべてのフォローを外したくなった。フォロイー側の問題というより、自分の気分。そのようなときはSNSから心を引き剥がすべき。 ◯腕立て たまに思いついたように軽くやる。意外に筋肉がつく。正しい腕立ては、ゆっくりと胸が床につくくらいまで腕を曲げる→数回で腕が悲鳴をあげて故障する。今では無理。 ◯じゃがいもを7個むいた カレーである。ほかにも冷凍してストックに。カレーには隠し味として蜂蜜を入れる。 隠し味は主役の味付けより先に入れるのが基本。 ◯聞き屋 「傾聴」ということだけど、難しい。そのすべてにおいて自分には素質がない。憧れに近い。 ◯月 冬なら寒月というのかな。『吾輩は猫である』に水島寒月という人が登場するのを思い出す。細い三日月がとくに好き。 ◯濃い読書 『触覚、 ジャン=リュック・ナンシーに触れる 』という厚い本を読んでいる。たくさん栞を挟みこんであり、このあと読書ブログの方に書評を書いていく。 ◯寝床思考 眠気と覚醒のあいだをたゆたいながら、あれこれ考えるのは楽しい。ただし実りのない由無しごとなので、時間の無駄ではある。 ざっとSNSの投稿に補足してみた。...

メメント・モリ(死を想え/現実編)

ご注意:痛々しい表現を含みます。 死について。 今までの経験や体験をふまえて思うこと。 たいていの病死は、全身が等しく衰えるより、ある部分が機能しなくなることで迎える。 頭は健康なのに癌が内臓に転移した、心臓は元気なのに脳卒中、等々。 つまりは殺されるのである。 神経は生きているし、健康な部分もたくさん残っている。 にもかかわらず、死に至らねばならない。その苦痛は並大抵ではないと思う。 最期はぜいぜいはあはあ、激痛にのたうちまわることも少なからずあるだろう。 かつて誕生の苦しみをくぐり抜けて、おぎゃあおぎゃあと産声を上げた。 おなじように最期は死の苦しみを経て、ふたたび大地へと還っていく。 多くの人々はそれを避けられない。平等に訪れるもの。 しかし恐れてばかりもいられない。生きるしかない。生かされている。 さて。現実的な問題。 あとに残された近親者。 相続である。 もちろん葬儀やご挨拶、諸々の届出、変更手続き、物品の整理やあとかたずけもある。 しかし相続は、場合によってはそれ以上に厄介だ。 相続手続からは誰も逃れられない (たとえ海外国籍を有していても。日本では、被相続人が日本国籍であれば日本の法律に従って相続がおこなわれる)。いくら「縁を切った」と言ってみても戸籍上は残る。血のつながりは絶対に断てないのである。戸籍謄本、凄まじいものだなとさえ私は思った。 相続財産。 お金だけとは限らない。土地・建物、株式、車・貴金属から、借金・クレジットの債務にいたるまで、途方もない。「負の遺産」まで背負わされるとなったら泣くに泣けない。総額の大きさ次第では納税義務もある。 まだある。 相続人は 「遺産分割協議」をおこなって「遺産分割協議書」を作成 しなくてはならない。(法定相続人が一人の場合は不要。また正式な遺言書が作成されていればそちらを優先し、家庭裁判所に遺言書を提出し検認を受ける義務がある。) 「遺産分割協議」:相続人全員で話し合い、全員が納得→遺産分割協議書を作成して遺産を分割する。 遺産分割協議書には、法定相続人全員の署名と実印の押印が必要。 (遺産分割協議で全員の納得が得られない場合→家庭裁判所へ申し立てをおこなう。) さらに厄介なケース。 例えば亡くなった親に離婚歴があり、前婚者との間に子供がいる場合など。 私の知人にも、義兄弟がいるのを知らなかったというケースが...

無-力

情緒的 コン アフェット に。 裏拍。 「ンタ、ンタ、ンタ、…」の「ン」。 無音から入る。ない・あるの順で、ないに気がつく。 あるいは演奏後の静けさ、その一瞬。『4分33秒』ジョン・ケージも。 余白。 狩野探幽、長谷川等伯、尾形光琳、あのたぐい。茶の湯、花道も。 (私なら小村雪岱。だが雪岱は余白というより「間合い」かな。) 残余。 小川国夫の短編小説。情感がのってきたところでバッサリ終わる。 締めくくりや余韻を味わえるような言句もない。 読み手の感情は、行末から白い空間に放り出されて風邪をひく。 沈黙。 このためのこの記事。 さまざまな沈黙にあって、罪も圧力もなく、心を引き寄せる沈黙。 それは映画の象徴的なシーン。 うんざりしたようにため息をつく同僚(上司ではあるが)に、 「どうかしたの?」とも「よかったら聞かせて」とも言わずに、 彼はただまろやかな眼差しで、少しうなずくだけなのだ。 話すつもりがなかった彼女も一瞬で降参、事情を語り始める。 この場面、沈黙が会話を見事に引き出している。 雨。 「雨が降り出した」という。 そうだろうか? この雨は、いつか降った「あの雨」が止んでいただけなのだ。 止んでまたその続きが降ってきたのだ。 と、そう考えることはできないだろうか? 「あるからないのではない。 ないからあるのでもない。」 …は、 「あるからないのである。 ないからあるのである。」 そんな、無の引きこむ力、 惹 ひ かれる力について。